うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

なぜ古典を読むことに価値があるのか 古本と古典の3つの違い

 

みなさんは単に古いだけの本と古典の違いはご存知でしょうか?

実は古本が古典と呼ばれるためにはいくつもの条件があるのです。

 

今回は古典は単に古いだけの本ではなく、その価値を認められ続けてきた

時間という試練を受けてもなお残り続けている普遍性をもつものです。

 

どのような言葉や文章も突き詰めれば最終的に古典に行きつきます。

私たちは古典をつぎはぎに学びながら生きているのです。

 

古典は

  1. 時代という試練を乗り越え
  2. 今でもなお語り継がれ
  3. 割と普通のことが書かれ
  4. 身近な作品にも盛り込まれ

存在しています。

 

それでは各自解説を交えていきましょう。

 

 

 

古典は時代という試練を潜り抜けている

 

古典といいますと皆さんは単に古びていて小難しいものと感じられるかもしれません。

ですが、それは違います。

 

古典と呼ばれている本以外にも同時代に複数の本があったはずです。

にもかかわらず古典と呼ばれる本と呼ばれない本がございます。

 

単なる古本は多くの人に価値を認められず、一部の好事家によって単なるコレクションと

みなされています。

しかも、新しく別のメディアに移転されたりもしません。

 

ですが、古典は違います。

文庫や選書などで定期的に版を重ねているのです。

 

というのも必ず触れておかなければならない情報がそこにはあるからです。

 

例えば哲学においても必ず触れておかなければならない古典は数多くございます。

 

哲学においては数えきれないほどにありますが、

ギリシャプラトンアリストテレス

中世のトマス・アクィナス

近世のデカルトとロック

近代のカントやヘーゲル

現代のニーチェベルクソンなどなど

 

彼らの著作の中にも古典と呼ばれるべきものとそうではないものが混在しています。

 

ごくごく簡単に絞るだけでもこれだけの古典が哲学にはあります。

そして、それらの書物に書かれている情報は現在でもなお価値を持ち続けているのです。

だからこそ、私はそれらの書物の存在を知っているのです。

 

重要でないのならば、学生に教えられるはずはありません。

古典は古典と認知されている限り、単に古びているだけの書物とは異なっているのです。

青空文庫」や「Project Gutenberg」などの試みも行われません。

安く買うこともできません。

古典はたくさんあるので安いのです。

 

古典は何度も改訂されるのです。

 

古典は現在も参考・引用されている

 

私は哲学専攻の者ですので、哲学における古典を例示しましたが、

そのほかの学問にも古典と呼ばれるべき書物は必ずあります。

 

哲学の隣接分野として宗教学・社会学民俗学・数学・物理学・生物学・法学・心理学などなど。

それらの学問には現在の基礎を作り出している古典がございます。

 

そして、書物には必ずと言っていいほど特定の古典が引用・参考されているのです。

民俗学ならば、柳田国男の『遠野物語』などは必ずと言っていいほど引用・参考されます。

レヴィ・ストロースなども参考文献とされることが多いです。

 

つまり、現行の研究はそれらの古典の上に成り立っているのです。

単に古いだけの本は必然的に専門的な書物で軽く触れられる程度で終わります。

 

そこにとどまらないことが古典が古本ではなく、古典たるゆえんなのです。

 

古典に常識が本元が詰まっている

 

古典を手に取って読んでみたことのある方ならばお分かりいただけるでしょうが、

ごくごく普通のことを述べている箇所が山ほどあります。

 

アリストテレスなどは微妙に現在の認識と異なっているところもございますが、

大部分がごくごく普通のことを述べています。

すんなりと受け入れられるのです。

 

それはすなわちアリストテレスの著作が無意識のうちに数々の言説に混ざり合って、

身近なものであるということを意味します。

デジャブを感じるのです。

どこかで聞いたことがあるのです。

 

そして、どこかで聞いたことがあるなと感じさせるような言説は

元をたどれば古典に行きつくのです。

 

そのような意味で現在常識と信じられている数々の言説は古典によっているのです。

 

「普通」とは何かと聞かれたら、古典と呼ばれている書物に触れてみましょう。

2000年以上前に書かれたはずの本なのに、親近感を覚えてしまうはずです。

古いはずなのに新しい、それが古典です。

 

アニメ・ゲーム・漫画などのポップカルチャーにも古典はある

 

ここまで古典は本であるということを前提にお話してきました。

ですが、古典というのは本にのみ限るわけではないのです。

 

ゲームならば分野にもよりますが、『インベーダー』・『テトリス』などが必ずと言っていいほど古典として語られます。

皆さんの中にもやったことがあるという方は非常に多いと思います。

 

面白いか面白くないかは別として触れたことがあるということに古典の本質があります。

 

漫画などならば、手塚治虫赤塚不二夫などがあげられるでしょう。

そして、彼らの著作は現在でもなお当然のように図書館におかれています。

 

ドラえもん』などになりますと、現在でもなおアニメ放送がされているほどです。

 

それは明らかに古典なのですが、古典と認識されていません。

現在でも通用するからです。

そして、生み出された年代が古いからと言って、その価値まで古びているわけではないのです。

 

古典とは何か

 

これまでのお話をまとめます。

現在の私たちがそれと知らないままに引用・参考された書物やそのほかのメディアで触れているからこそ古典は古典なのです。

 

古典には単に難しいということだけではなく、何らかの既視感(デジャブ)を起こさせます。

それは古い情報であるはずなのに、今でもなお新しいという逆説的な性質があります。

 

古いけれど古びていない。

古びようとしていても、古びさせないように努める誰かがいる。

 

それが古典が古典たる本質です。

 

とりあえず具体例を挙げますと、岩波文庫に入っているものはすべて

何らかの学問の古典です。

基礎基本をなしながら、いまでもなお価値を持ち、書店に並べられています。

 

みなさんも自分の興味のある分野の古典に触れてみてはいかがでしょうか?

きっと現在の趣味をより深く楽しむことができるはずです。

 

まとめ

 

今回は古典が単なる古本ではないことをお話ししました。

古本は読めば明らかに古いものだと感じます。

ですが、古典は誰かが何とかして古びさせないようにしようとしますし、

仮にそれをしなくても古い作品であると感じさせない何かがあります。

 

だからこそ、古典は保存されます。のちの世代に語り継がれてしまいます。

 

時代というのは残酷なもので無価値なものは保存されず、

本ならばいつか腐り果てて、映像メディアならば放映機器が物理的に存在しなくなります。

 

しかし、それらの古典は現在でも何度も改訂を重ねています。

現在でも求められているからです。

求められているからこそ古典は古本ではなく、古典なのです。