うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

倫理と実存主義 死ぬ権利などはないという絶望

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はじめに

 

強迫的な倫理について考える、ほうじょうです。

 

今回は

実存主義について考えます。

実存主義とは存在してしまっていることに対する絶望のことです。

そして、必ず倫理が付属しています。

 

そして、

存在を保つために命を奪わなければならないという事実と

存在に限りない配慮をしなければならないという配慮とで

矛盾しているというお話をします。

 

崩壊した日常で

 

実存主義が流行り始めたのは戦後でした。

戦後の混乱、変わり果てた街に、失われた家族と友人。

存在とは何かを考えざるを得ない状況で

実存主義が思想界を席巻したのは必然的とすら言えます。

 

哲学はその時の社会状況に合わせて考えられます。

決して一人ではできず、それでいて限りない孤独を実存主義は唱えました。

 

現在ではほぼすたれてしまった実存主義ですが、

常に憂鬱を抱え、日常が非日常である人にとってはいまだに力を持つ哲学思想です。

 

絶望的な存在論実存主義

 

それでは、実存主義が具体的に何かを話してみたいと思います。

各哲学者によって言うことは変わりますが、

実存主義はだいたい「求めているかにかかわらず存在してしまっていること」

について考える分野であるといえます。

 

理由は実存主義の哲学者たちが必ず存在を放棄することの難しさを説いているからです。

 

実存主義の先駆けとして名高いキェルケゴール

「存在は本質に先立つ」と述べたサルトル

イリヤ」という存在してしまっていることを述べたレヴィナス

 

彼らは共通して、ただあることに対して絶望を述べています。

楽観的な気晴らしは存在の限りない不安の前ではかき消され、

存在にくぎ付けになります。

 

倫理的な存在論としての実存主義

 

もう一つ、実存主義存在論において非常に倫理に傾い他分野である点が挙げられます。

 

レヴィナスを例に挙げます。

 

私たちは何一つ理由なくただ生きることを強制されています。

さらに、その中でも他者に対する強迫的ともいえる配慮を求められます。

人の顔を見てしまえば、その人の心情を想像し、何かをしなければならない。

そんな責任感にかられます。

 

(話はそれますが、可愛さなどは強迫的な配慮を求める要因の一つだと思います。)

 

ただ顔を見るだけで配慮したくなる。

そのような性質が私たちにはあると説きます。

 

少し話はそれますが、戦争で使われる兵器の話をします。

存在に対する限りない配慮に密接に関係のあるお話ですので、

今のタイミングでお話しします。

 

兵器は最初鈍器でした。

しかし、それは弓となり、銃となり、飛行機となり、

徐々に徐々に人から離れることになります。

 

かつての人々はそれを求めたのです。

そして現在の人々もそれを求めています。

単に自分が安全に敵を攻撃したいという欲求だけがあるわけではありません。

鈍器や剣などによって人を打ち倒す感触を人々は避けたのです。

 

現在、兵器は遠隔攻撃をできるように求められ続けています。

可能な限り奪われる命が遠くにあってほしいと求められ続けます。

そこには私たちの人を殺してしまう感触を味わってしまいたくないという欲求が

あるように思われます。

 

すなわち、レヴィナスの述べる顔を避けるように人々は戦争を発展させ続けたのです。

顔を見てしまい、その人を人間として認めてしまえば、必ず刃は鈍ります。

握りしめた銃の引き金は重くなります。

 

戦争は存在に対する限りない配慮から逃れるように進化しました。

その必要があったからです。

そのような存在に対する配慮はどちらにせよ逃れるために特殊な技術が必要です。

他人に対する倫理・配慮は本来的であり、避けるほうが難しいという話が

レヴィナス実存主義では行われます。

 

絶望の中で実存主義は生まれる

 

先ほど、実存主義は戦争の後で流行ったというお話をしました。

ですが、戦争は実存主義が流行るための要因ではありますが、

必ず必要というわけではありません。

 

キェルケゴールという人のお話をします。

 

彼は裕福な家庭で生まれ、成績も優秀でした。

しかし、彼は常に絶望について考え続けました。

 

その痕跡をうかがうことのできる『死に至る病』という書物があります。

その書物ではありとあらゆる人の心理状態を絶望と説きました。

 

絶望状態にあることを知らないという絶望。

自分が絶望しているということを知っているという絶望。

自分が絶望しているとわかっていても、存在しないといけないという絶望。

 

何が絶望でないのかわからないほどに『死に至る病』では詳細に絶望について語られます。

 

彼は外面的には穏やかな生涯を過ごしましたが、その内面の苛烈さは

並みのものではありません。

 

彼は存在が本来的に抱えてしまっているものを見てしまい、

それを考えざるを得ない状態になりました。

 

現在ではキェルケゴールの思想は実存主義の先駆けと解釈されています。

どうしようもなく存在してしまっているという点で類似していたからです。

 

生きることに疲れ果てても

 

それでも、彼らは生をあきらめませんでした。

彼らは自死を選択しませんでした。

自死の先にも存在があることを直観していたためです。

 

たとえ、生きることに疲れ果てていたとしても、死ぬ権利はありません。

そんなものは存在の中に含まれていないのです。

 

当然、他者を死に至らしめる権利もありません。

仮に死に至らしめる必要があるとしても、

そこには嫌悪感がまとわりついてきます。

 

そのような嫌悪感をこらえながら、私たちは生存しています。

 

まとめ

 

昨今は他者を死に至らしめなければ生きられないことと

他者に配慮しなければならないという矛盾は考えられなくなっています。

 

食肉加工は隠され、命を奪うことを肩代わりする人たちがいるためです。

私たちは普段命を奪いながら生きているという自覚をする必要がありません。

 

命を奪うことに対して遠隔的になっているのです。

戦争において兵器が遠隔的になったのと同様に食に関しても遠隔的になりました。

 

今では調理積みの食品がスーパーやコンビニに立ち並びます。

それらを見て、私たちが嫌悪感を催すことはめったにありません。

ちなみに私も特に嫌悪感を催しません。

豚の丸焼きぐらいでしょうか?

 

それが幸運なことなのかはわかりませんが、

現実にそうなっているということだけはわかります。

 

実存主義は薄皮一枚を隔てて常に存在し続けています。

気晴らしをやめてしまえば、見えてしまうものがあります。

 

見えてしまうのは不運なことですが、そこにあることを知らないこともまた

倫理にもとります。

 

どちらにせよ矛盾は常にあり、見過ごされているのです。

それを実存主義は伝えます。

 

ここまで激重な文章を読んでいただいた方には格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

私が言うのもなんですが、思いつめすぎないように気晴らしを忘れないでくださいね。

 

参考文献

 

『時間と他者』著 エマニュエル・レヴィナス 訳:原田佳彦 法政大学出版 1986

死に至る病』著 キェルケゴール 訳:斎藤信治 岩波文庫 1939