うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

幽霊考察 幽霊の正体見えずば…… 

 

霊魂なるものに思いをはせるほうじょうです。

皆さんは幽霊のことを信じていらっしゃいますか?

 

実は私、幽霊の存在を信じているんですよ

と言えば、驚かれますか?

 

いえいえ、特に幽霊を見たとかそういうことはありません。

見知らぬ場所の暗がりに恐怖し、他人の聞こえない音を聞いたことがあり困ったことがある程度でございます。

霊感などという高尚なものはごあいにく持ち合わせがございません。

 

ですが、それだけですとつまらない。

せっかく幽霊という恐ろしくも面白い存在があるのならば、

一つ幽霊について類推してみましょうか。

 

念押ししますが、幽霊の類を映像機器を通して以外見たことがありませんので、

霊感と呼ばれるものは持ち合わせておりません。

ただの好事家でございます

 

真なる恐怖話を求め、お越しいただいた皆々様のご期待には添えないかもしれません。

それでもよろしければ小話を一つ、閲覧するだけのお時間をいただきとうございます。

 

 

幽霊の正体見たり枯れ尾花

 

まずは幽霊の存在を信じないとすることわざの中で最も有名な

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

を引っ張って参りましょうか。

 

こちら、意味合いは皆さまもご存知の通り、

幽霊だ幽霊だと思って確認してみたら、なんと単なるしだれ柳だった!

幽霊なんて正体を知ってしまえば、たいしたものではないものだ。

そのようなことわざです。

 

幽霊の存在を否定するために必ずと言っていいほどに引き合いに出されますゆえ、

こちらから始めるのが得策かと存じます。

私も幽霊を見ることができずともしだれ柳ならば見ることができますので。

 

しかし、幽霊の正体を枯れ尾花と見たとしてかつて自分が幽霊だと思ったこと自体を否定することができるでしょうか?

かつて幽霊らしき姿を夜闇の中に見出したことを忘れられますか?

そこに潜むであろう何者かに恐怖し、わざわざ確認したという行為を否定できますか?

 

恐怖したという心理的事実までも否定する強情な方は非常に少ないでしょう。

 

枯れ尾花が常に枯れ尾花とは限らず

 

では、この恐怖をもとに一つ問いかけをば。

 

もしも枯れ尾花も明るみに出なければそれは幽霊のままだと思いませんか?

幽霊が幽霊ではないと確認されるためにはそこにその場で近づく必要がありますゆえ。

 

しかし、確認されなければそこには幽霊が潜み続けるでしょう。

まさかと思いつつも通り過ぎ何事もなかったとしても、です。

 

仮に枯れ尾花か確認するため正体を探りに行きましょうか。

しかし、幽霊の正体が暴漢だったとしたらいかがいたしましょうか?

 

これは非常に恐ろしい。

確認しに言ったばかりにむやみに危険を得てしまった。

藪をつついて蛇を出したように、

幽霊を確認して暴漢を出すようなことになってしまいました。

 

こう考えれば、幽霊が幽霊であったほうが得だったと思いませんか?

幽霊を恐れ、好奇心に負けていなければ……。

恐怖を恐怖のままにすることが安全のために必須だったと思い直すことでしょう。

 

さて、ここで思考を跳躍させましょう。

正体を図ること自体恐ろしいものこそ幽霊であると。

 

正体がわからずにいるがゆえにそれは幽霊なのであり、

よしんば妖怪・UFO・UMAと呼んでも差し支えないものなのです。

それらのものものは恐ろしい場所にいます。

多くの場合正体が見えないことのほうがよっぽど幸福であるといえましょう。

 

触らぬ霊に祟りなし

 

さて、話を幽霊のお話に戻しましょうか。

幽霊は正体不明です。

正体不明であることに都合がいいために幽霊は正体不明なのです。

 

仮に確認することができなくとも、いのししのざわつく音だとか暴漢のうごめく音だとかそういった解釈も可能でしょう。

それが現代人の解釈というものです。

恐ろしくありませんか?

 

幽霊よりも死に至らしめてくるそれらの凶暴な異物のほうがずっと恐ろしくありはしないでしょうか?

面白くもなく、むやみに恐ろしいばかり。

 

さて、私達は影の中に居ます。

夜闇でもありますし、山間でもありますし、深海でもあります。

 

さあ、突如影から躍りかかるものが登場します!

その姿は確認できず、しかし命は助かった。

怪我もなかった。

だが、いったいあれは何だったのか……。

 

かつていたるところに死角のあった日本ならば、当然そのようなことは頻繁に起こるでしょう。

原因不明の死にざまを見せたものも数多くいるでしょう。

 

夜盗も獣もいた時代、それらの影におびえながら歩くとき、

木の葉のざわめきを人と見ずにいられるでしょうか?

自らに害なす何者かに見えはしないでしょうか?

 

夜道を歩くときに死角を恐れずにいられましょうか?

 

おびえが木の葉を霊に見せましょう。

その姿を確認すること叶わない夜ならば、それが幽霊と呼ばれるのも必定。

何よりも恐ろしいものが隠れているよりは幽霊であると断じた方がずっとマシです。

 

幽霊を否定しに向かうことほど危険なことなし

 

さて、ここまでお話ししてきたことは次のことをいうためにあります。

 

幽霊を否定することは百害あって一利なしの愚考である、と。

 

なぜなら、幽霊が登場する場所事態、死角であり現実的な恐怖が潜んでいる可能性があろうためです。

 

そこには暴漢がいるかもしれません。

変質者としか形容できない何者かが息づいているかもしれません。

 

それらを確認してしまえば、彼らからの反撃を食らうことになるでしょう。

肝試しの真に恐ろしいところは幽霊にあるのではなく、

幽霊が潜むことができるほどの死角が随所にあるところです。

 

そこには現実的な恐怖が薄皮一枚、幽霊への恐怖一枚で隔たれています。

確かにそこには幽霊がいるし、いたほうがいいのです。

幽霊とは本物の恐怖を覆うためのオブラートのようなものです。

 

それよりももっと恐ろしいものを見ることになるぐらいならば、

幽霊を見ることになったほうが随分とマシでしょう?

 

そんなこんなで私は幽霊を信じ、幽霊の潜むことができるような場所には近づかないようにしております。

幽霊に危害を加えられるのではなく、危険がある場所に幽霊が潜むのです。

ゆめゆめお忘れになりませぬよう、願っております。

 

まとめ

 

今回は幽霊についての所感を述べてまいりました。

簡潔にこの文章で申したかったこと、それは幽霊は信じておいて損はありません、

ということです。

 

あそこに幽霊がいそうだ、避けて通ろう。

このような第6感的な危険認識には従うべきです。

そこには幽霊と呼ばれてしかるべきほどに生易しい存在がいるとは限らないですから。

 

幽霊の正体を知る画策はすべて恐ろしいものです。

それは幽霊に出会うよりも膨大なリスクを含みます。

 

もう一つ言えるのは肝試しは危険だからやめておきましょうということですかね。

幽霊の正体を見ても枯れ尾花なだけです。

枯れ尾花なだけずいぶんと運のいいことです。

 

ならば、幽霊は幽霊のままにしておいたほうが得ではないでしょうか?

ホラー映画もろくろく楽しめなくなってしまうようになってしまうかもしれませんよ?

 

さて、ここまで駄文・乱文、ご読了いただけた辛抱強い方には格別の感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。