うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

宗教と風土 『日本的霊性』覚書

 

 

気候変動が体調に直結するほうじょうです。

 

気候変動はものすごくつらいものです……。

なんでも気候の影響はどのような動物にも影響を与えているようです。

もしかすると、自分だけのものかと思っておりましたが、どうやら普遍的に気候は人々の体調に影響を与えるものなのかもしれません。

 

 

 

そこで一つ、思い付きが生じました。

 

現在、読んでおります『日本的霊性』という書物の第2章において風土という言葉が使われております。

この風土というものが人の思想信条に大きな影響を与え、規定しているのではないかという思い付きです。

 

それら風土と宗教に関する書物を私は複数読み通したことがありまして、

やはりここに宗教を理解するだけの種が埋まっているのだろうと感じております。

(書名は恥ずかしながら忘れました。 覚えているのは『銃・病原菌・鉄』ぐらいです。)

 

今回はそれら風土といういまだ研究の進み切っていない分野に入門すべく

私の現行の思い込みを書き連ねていく次第でございます。

 

 

 

『日本的霊性』の主張

 

『日本的霊性』では宗教が生まれるためには霊性がなければならないと主張されます。

しかし、霊性について私などでは何を指しているのか全く分からず、

とりあえず鎌倉でその霊性が開花したらしいというごくごく浅いところのみを

なぞっておりました。

 

しかし、第2章で風土という言葉が使われ、チューリップやヒヤシンスが日本に根付いていくたとえを聞きました。

なんでもチューリップやヒヤシンスはオランダから輸入された当時からその姿を日本風に変えたというのです。

かつて高山植物であったチューリップやヒヤシンスは低地植物と成り果てました。

 

すなわち、ピンと記憶の網に引っ掛かりました。

この霊性というものは日本本州において気候や土着の文化に触れ続け、育まれてきた特殊な意識を言うのではないかと。

さらに一般化すれば、霊性自体はよその地域にも別種の形であるのだろうと推察されます。

 

というわけで私はこの霊性を気候や文化を総合して現れた特殊な意識と解釈いたしました。



日本的霊性という言葉に含まれる問題

 

日本というと現在の私たちにすれば、47都道府県を思い浮かべるでしょう。

しかし、北海道や沖縄などもとは別の国家でした。

そこを簡単に日本的ということができるでしょうか?

 

特に筆者の主張する鎌倉時代において北海道や沖縄がどのような扱いであったかに着目すべきかと思われます。

 

私にはどうしても引っ掛かりがございまして、簡単に日本的なる言の葉を利用することができません。

さらに言いますと、現在日本と呼ばれている地域において小国が乱立し、争いあっていた時代があります。

 

地図は頻繁に書き換えられて、統一された政権が作成されているのは本州のみ。

歴史事情を鑑みれば、当然日本的とは何かを見失います。

そこで私は判断停止することにいたしました。

 

とりあえず日本的というものを本州、特に京都や江戸などを中心とした文化のみを考えることにいたします。

ここらならば、一応文化的統一がわかりやすいように思われます。

統一政権がありましたので……。

 

しかし、鈴木大拙によりますと平安などの貴族文化なるものよりも武士のごとき地方にいたもののほうが霊性を体得していたと主張されます。

いまだ解釈違いをしているような気がしております。

 

私の力ではすべての歴史事情を踏まえた日本的なるものを理解することができませんでした。

非常に申し訳なく思います。

適宜、修正を図りたいと思います。

 

風土とは何か

 

さて、本題に入らせていただきます。

 

宗教は大地に根付く必要があります。

もっと言えば、気候の変動や繁茂する植物の種類、呼気する四足動物の脈動によって

宗教は変わってしかるべきものです。

 

例えば、砂漠のような取り巻く自然が厳しいものだったならば?

その宗教は必然的に戒律が厳しいものとなります。

戒律が厳しくなければ、そのような砂漠の中で生き残ることができないためです。

 

このように取り巻かれる環境、気候、成立している文化を含めて風土と呼びます。

これらの風土は宗教と密接に関係しております。

鈴木大拙のいうところの霊性とはこの風土のなかで育まれた特殊な意識のことを言うのだと私は解釈します。

 

私自身も場所や人によって宗教は変わるべきものだと考えておりまして、

この解釈ならばすんなりと受け入れることができます。

 

まとめ

 

『日本的霊性』の霊性が何か全く分からず、思考が右往左往しておりましたが、

風土の言葉とチューリップとヒヤシンスのたとえで一気に霊性というものが解されたように思われます。

 

それは単なる誤解に過ぎないかもしれませんが、

現在はこの認識で進めていきたいと考えています。

惑い右往左往するよりは間違っていてもまっすぐと進むほうがマシでしょう。

そのうち、自らの解釈の誤っているところが見つかるならば、そちらに移り変わればいいのです。

 

何も見えない暗がりを進むよりは偽物の光を目指して進むほうがよいでしょう。

 

今回はいまだ発展途上の思考をあえて披露いたしました。

私にはこのような風土における宗教の変遷にこそ、

宗教に死ぬものを減らすヒントがあると思われます。

 

さらに精進し、深めていきたいと思います。

 

ここまで乱文・駄文を読み進め、ここまで至っていただいた方に格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

 

参考文献:『日本的霊性』 著:鈴木大拙 岩波文庫 1972