うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

シャルリー・エブドから考える相対主義と表現の自由 公共の福祉というくさび

 

はじめに

正しさが暴力である時何をすればいいか考える、ほうじょうです。

 

今回は

相対主義表現の自由をどのように扱うかについてお話します。

結論から申し上げると、

相対主義の立場を取る時点で表現の自由に関しては

非常に過激な立場を取ることになります。

理由は簡単。

すべての真理が同時に正しいからです。

 

たとえそれがどれほど差別的で暴力的で自分にとって害がある言論や絵であったとしてもです。

 

シャルリーエブド襲撃事件

 

2015年、シャルリーエブドという風刺画を載せる出版社が襲撃されました。

多くの波紋を残し、人々に表現の自由とは何かを突きつける事になりました。

 

私も表現の自由について考え始めた人の一人です。

 

シャルリーエブドは、風刺画を載せる自由、もっと踏み込むと人を馬鹿にする自由があるかどうかを問いかけてきます。

 

人を馬鹿にする自由

 

皆さんは人を馬鹿にする自由はあると思いますか?

私はあってほしくないと思います。

 

しかし、

そんな感情とは関係なく表現の自由は原理的にどのような種類の表現も寛容します。

表現の自由において原理的には人を馬鹿にする自由は明確に存在しています。

 

だから、実はこの問題は表現の自由の問題ではなく、

公共の福祉、すなわち道徳の問題としたいです。

 

 

表現の自由ではシャルリーエブドも襲撃者のどちらも正しいと言うしかありません。

 

ですが、道徳という点ではむやみに特定民族を挑発したシャルリー・エブド

挑発を受けて、武器を差し向けてしまった襲撃者。

どちらにも道徳における正しさはありません。

 

シャルリー・エブド襲撃事件は実は道徳の問題であるにもかかわらず、

表現の自由の問題に還元されたことで話がややこしくなっていたのです。

 

道徳における人を馬鹿にする自由

 

道徳においては公共の福祉という概念を利用することができます。

 

公共の福祉は端的にいうと人に迷惑を書けないように表現をしましょうというお約束です。

 

これをシャルリー・エブドは破りました。

表現の自由では、相対主義では

シャルリー・エブドにも襲撃者にも何らの責任も追わせることはできません。

どちらも同時に正しいからです。

 

はっきり言ってこの事件に対して表現の自由相対主義は無力そのものです。

 

ですが、それでも何かを言いたいならば、公共の福祉の概念を利用するところまで

相対主義を緩和させることができるでしょう。

 

相対主義の程度、表現の自由の程度を公共の福祉を利用できるレベルにまで落とすのです。

 

この場合、人を馬鹿にする自由などというふざけたものは否定されます。

他人の自由を侵害する表現には制限がかけられます。

 

道徳上、表現の自由は制限され、人を馬鹿にする自由は制限できます。

 

表現の自由は常にあるが……

 

表現の自由相対主義の延長です。

普段はそれで成り立っています。

 

しかし、表現によって人を傷つける時、相対主義者は自らの思想を投げ捨ててでも

道徳に従うことができます。

緊急時における倫理と平常時における倫理は異なるためです。

 

もしも、相対主義が、表現の自由が、無力ならば、道徳の力を借りれば良いのです。

要するにどうしようもない状況、何も語ることができない状況ならば、

相対主義者は自らの相対主義の程度を下げることができます。

 

シャルリー・エブド襲撃事件は各関係者全員が加害者であり、被害者でした。

各自の正しさを論じれば、当然錯綜した立場によって混乱することになります。

 

ならば、各自の加害者と被害者しての程度を論じる必要があるでしょう。

 

どちらも正しいけれど、人命が失われてしまった。

それならば社会の慣習や道徳的感情に従い、表現の自由を緩和する態度を見せることもできます。

 

常倫理的相対主義者は常に原理主義的であることを求められてはいません。

むしろ、倫理の要請によって原理に目を瞑る可能性もあります。

 

表現は傷つけた 傷つけられたものは表現に対して暴力を表現した

 

相対主義、特に倫理的相対主義は善悪の是非を語ることができません。

ただ、表現者が見るものを傷つけて、傷つけられたものが表現者に対して暴力として怒りを表現したという事実を傍観するのみです。

 

ただどちらも正しいと涙を堪えてでも言う必要があります。

 

表現の自由におけるゾーニングの重要性

 

 

一歩、踏み込みましょう。

倫理を突き詰めるための相対主義であるはずなのに、何も語ることができない。

 

それで倫理を語ることができるか?

双方傷つかずに済む方法があるのでは?

 

その可能性としてゾーニングというものがあります。

単純に憎悪の表現は特定の場所でのみ許されて、衆目に映らないようにするというマナーがあります。

このマナーがゾーニングです。

 

人を不愉快にさせるかもしれない表現はあらかじめ特定の場所でのみ表現するように

自主規制するのです。

 

このゾーニングが徹底されてさえいれば、表現の自由と公共の福祉が同時に成り立ったかもしれません。

 

シャルリー・エブドがもしも出版社としてではなく、インターネット片隅の個人として表現していたならば、事情が異なっていたでしょう。

 

表現の自由はあるとしても表現の拡散の自由までは認められたわけではありません。

 

私はこのゾーニングの徹底にのみ表現の自由と憎悪の表現は両立すると思います。

当人に聞かれない陰口は陰口などではありませんからね。

 

まとめ

 

今回は相対主義者として表現の自由は全面的に擁護したいけど、

倫理的に絶対擁護したくない、シャルリー・エブド襲撃事件を

一時的に相対主義を和らげることで公共の福祉を導入することで考えてみました。

 

結論として、道徳においては一切シャルリー・エブド事件において擁護されるところはなかったと言い切れます。

 

そして、ゾーニングの徹底こそが人を馬鹿にする自由、憎悪の表現の自由

保証してくれるとも結論づけました。

表現の自由はあっても、それを拡散する自由までは語られていませんからね。

 

表現の自由にあぐらをかいて何をしてもいいと主張するのは、

他人の倫理を侵害する非道徳的で非倫理的です。

一旦変化球で正しくないような見せかけを作っておきます。

 

(原理的相対主義においては拡散する行為に対しても正しさを唱えなければなりませんが一旦忘れます。判断停止です。ここは一切私は認知しないのでご承知おきを。)

 

一応相対主義における見せかけの正しくなさをでっち上げたところで

本文を終了させていただきます。

 

ここまで読んでいただいた方には格別の感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。