うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

相対主義と秩序の矛盾 マナーを守らない人への対応

 

はじめに

 

実生活での相対主義の難しさを痛感し続ける、ほうじょうです。

 

今回は

生活で相対主義を実行するうえで最大の課題である、

「マナーを守らない人」に対する対応法を考えます。

 

倫理的相対主義によると彼らに対して配慮をする必要があるのです。

にもかかわらず、感情が邪魔をして彼らを許せない。

 

そのような感情を相対主義から切り離さなければ相対主義の実践は難しいという

お話しをします。

 

相対主義の概要

 

まずは相対主義というのが何かを大まかに説明したいと思います。

相対主義はあいまいに使われることが多いので、

今回の記事ではできるだけわかりやすくしたいと思います。

 

それでは……。

 

相対主義とはすべての価値観や事実がそれぞれ正しいとする立場のことです。

大まかに文化的相対主義・倫理的相対主義・認識論的相対主義があります。

 

文化相対主義はありとあらゆる文化の正しさは同時に成り立つという理論です。

倫理相対主義はありとあらゆる思想や善悪は同時に成り立つという理論です。

認識相対主義は視点や観測結果にたいしてそれぞれの正しさがあり、

科学において客観的事実は存在できないという批判を行う理論です。

 

今回、お話しするのは倫理的相対主義です。

ちょっと文化相対主義も混ざるかもしれませんが、

それは倫理と文化が隣接していて、重なっている部分もあるからです。

 

認識論的相対主義は恐ろしく煩雑なため今回は触れないでおきます。

 

相対主義と身体

 

マナーを守らない人も正しいってどういうことだよ……。

そんな思いを抱える方もいると思います。

私もそう感じます。

 

相対主義を実践するうえで一番ネックになるのは自分の身体です。

ここでいう身体は感覚器官をもつ肉体を表します。

それゆえに、好き嫌いや社会的立場などの違いが生じます。

 

このような違いの中でも特に好き嫌いは相対主義の実践の最大の阻害要因になります。

 

例えば、人を見たうえで全くよけない人。

例えば、万引きをした人。

 

そのような人に対して私たちは道徳的な正義感にかられます。

 

人にぶつからないように歩くのは当然のことだ。

だから、ぶつかるように歩くあの人は正しくない。

 

人のものを盗んではいけない。

だから、万引きをした人は正しくない。

 

そのような意味での道徳的な正義感。

不正を認識し、正しくないと判断する、もはや自然に作動してしまうかのような

道徳的な正義感が私たちにはあります。

 

相対主義と秩序

 

この道徳的な正義感はもはや認知に対して思い込みとすら思われないほどに

自然なものになっています。

 

それに対して倫理的相対主義はNOを唱えます。

 

具体的には、

 

人にぶつからないように歩くだけの余裕がないんだ。

だから、こちらが配慮をするべきだ。

 

万引きをしてしまうのは衝動的で実は病名すらもついている病状なんだ。

だから、万引き自体は咎められるべきだけど、万引きした人自体を責めてはいけない。

 

このように倫理的相対主義は相手の立場・能力を考慮し、どうしようもない事情から

仕方なくそのような非道徳的な行動をとってしまったと判断します。

そのどうしようもない事情を考慮し、相手の立場に立つべきだと主張できます。

 

道徳と倫理

 

先ほど突然倫理ではなく、道徳という言葉が飛び出してきました。

 

実はこの道徳という言葉、倫理とは異なるものです。

 

道徳は社会一般で生活に秩序をもたらすための行動規範です。

それに対して

倫理は個人的な生活において排除されることや身体を傷つけられることに

反対する行動規範です。

 

多くの場合、道徳と倫理は一致します。

しかし、時に人は道徳から外れることがあります。

それでも、倫理ならば道徳から外れてしまった行動に対しても対応をすることができます。

 

ちなみに道徳に反してしまえば、必ず社会によって刑罰を受けることになっています。

それが秩序をもたらすためのシステムです。

 

ですが、その刑罰の中でも倫理を働かせる余地があります。

刑務所が道徳的な更生のための教育や労働を罪人に施すのは

このような倫理が働いているからです。

 

いわゆる境遇に対する同情・憐憫などが倫理の源泉です。

 

ですが、倫理的相対主義にそのような同情や憐憫は必要ありません。

むしろ、同情や憐憫なく許容することこそ倫理的相対主義です。

 

倫理的相対主義には同情・憐憫の感情は必要ない

 

さて、相対主義の話に戻ります。

倫理的相対主義においてはありとあらゆる物事や人々に対して

倫理をもって接する必要があります。

 

なぜなら、彼らはどうしようもない事情でそのように行動しただけのためです。

倫理的相対主義は彼らに責任があることを認めません。

彼らの正しさの体系においてその行動が正しいと判断されてしまうのならば、

倫理的相対主義の立場ではその正しさを肯定する必要があります。

 

たとえ、吐き気を催すような邪悪のように感じられたとしても、

そんなものは倫理的配慮をしない理由にはならない。

それが倫理的相対主義です。

 

倫理的相対主義は身体に大きな負担をかける

 

今までは倫理的相対主義がまるで良いものかのように話していました。

それでは、公平性に欠けるため、

ここからは倫理的相対主義のデメリットを私の実体験を交えて話していきます。

 

まず、倫理的相対主義の実践に必要なのは感情と思想を区別する分別能力です。

 

これが実につらい。

感情としていらだちやむかつきがあっても、それを無視する必要があります。

当然、いらだちやむかつきはそのままにしておいても解消されません。

何らかの方法で発散する必要があります。

 

ですが、相対主義を突き詰めるとそのいらだちやむかつきを差し向ける対象がありません。

つまり、怒りの元のいらだちやむかつきを解消するための手段が非常に制限されます。

 

怒りを発散しないことで生じる症状は私の場合は

体温の上昇・頭に血が昇り、目の前が白くなる・動悸・息切れ、などなどです。

 

とにかく体に負担がかかります。

 

その負担を軽減するために相手の立場を考えるということをするのですが、

それもまた難しい。

 

実は道を歩いている人は本当に何も考えていない場合があって、

単に面倒だから避けないという可能性が高いからです。

 

相手の立場に立ったとしても、相手のことを理解しきることができない。

なぜなら、肝心のその相手も自分の行動を理解していないから。

 

そんなことが頻繁に生じます。

現実はかくも厳しいものなのです。

 

ですが、悪いことばかりでもありません。

 

相手の立場に立つ癖がついているから人に配慮することに一切の抵抗がなくなります。

特に道徳的な傷がない人に対してならばなおさらです。

思考停止で息を吸うように配慮できます。

 

細かいコミュニケーション能力を向上させることができます。

 

さらに、感情と思想の区別をすることで異なる立場・新しい物事に対応する力が

高く培われます。

常に困難なパラドックスに挑み続けているようなものなので、

事務的だけど突発的な物事に対応する力がはぐくまれます。

 

結果的にですけどね。

 

まとめ

 

倫理的相対主義について理論的な話。

倫理的相対主義が可能なこと。

倫理と道徳の視点の差。

単なる倫理を乗り越えるための倫理的相対主義

そして、倫理的相対主義を実践した時のデメリットとメリット。

 

そのような話をしてきました。

 

これらを踏まえて表題の結論を出します。

マナーを守らない人に対する対処はただ一つ。

マナーを守らないのではなく、守れないと考えることです。

 

マナーを知ってなお無視しているのではなく、

そもそもマナーを知らない・マナーを知っていても守るだけの体力・精神的余裕がない。

そう考えることです。

 

このように相手の事情を考えることは非常に疲れます。

ですが、それだけ対応力の訓練にもなります。

常にパラドックスに挑み続けるかのように自分を鍛え続けてくれます。

こちらがつらいばかりではないのです。

 

このようなメリットはこのお話をしている間に思いつきました。

苦しいけどやらなければならない。

そんな義務として倫理的相対主義をとらえていましたが、

自分の訓練をするためにも倫理的相対主義を実践し続けているのかと納得しました。

 

ちょっとした気づきが得られたところで今回のお話を終わりたいと思います。

ここまで読んでいただいた方に格別の感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。