うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

嫌な物事を受け入れること 倫理における相対主義と寛容

 

はじめに

 

すべてを受け入れたい、ほうじょうです。

 

今回は

 

先日、考えた相対主義を応用して、

嫌なものを受け入れるという意味での寛容について考えていきます。

 

嫌いな人でも幸せになってほしいし、嫌なことがあってもそれを受け入れる。

そういうことを私は試みています。

 

倫理における相対主義

前回から相対主義について考えを深めるために

インターネットで相対主義について調べたところ、

良いサイトを見つけました。

 

いろいろ思うところはありますが、

現在の相対主義に対する一般的な考えを知ることができるためおすすめです。

 

相対主義に関するよくある質問

 

さて、このサイトによって、

単なる相対主義ではなく、私は善悪における相対主義を論じていることになります。

相対主義の程度は現実に行為しうるという点まで妥協します。

 

では、善悪における相対主義についての説明をします。

 

善悪における相対主義は善悪に対する判断を停止します。

相対主義はありとあらゆる物事を関係性から考え、

正しさはその関係性において成り立つという点から

一切の善悪を考える必要がありません。

 

なぜなら、善悪は個人において異なるものだからです。

つまり、視点を変えれば、常に善悪は変わりますし、

複数の視点を用いれば、善悪は多重になります。

 

それゆえに、可能性としてすべてのものは視点が無限にある限り、

善でもあり、悪でもあります。

 

このようなすべての物事が視点の数だけ善悪が存在するという論法から

身体のレベルで嫌なものを受け入れるための思想的な土壌を得ることができます。

 

 

 

寛容と相対主義 

 

先日、私は相対主義の記事を書きました。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

私がなぜこの相対主義を考えるようになったのかと言いますと、

どうすれば嫌なものを受け入れられるのか。

それを考えた結果、相対主義が最も適切だと感じたためです。

 

先程説明いたしました善悪における相対主義によって嫌なものを受け入れること。

すなわち、ありとあらゆる物事に対する寛容を行う可能性が生まれるのではと、

考えたためです。

 

 

そして、嫌なことを受け入れるためには極端な倫理が必要であると感じたこと。

そして、それが私にとっての相対主義でした。

 

汚いものも醜いものも等しく相対主義においては価値をもたせる必要があります。

そのような強制力が寛容には必要だと私は考えています。

 

寛容とはなにか

 

上では相対主義から寛容を考えました。

それでは、寛容とは一体何でしょうか?

 

寛容とは端的に言って、嫌なことを受け入れることです。

似た意味の言葉に甘受がありますが、

こちらの方には「嫌々、嫌なものを受け入れる」といった

価値判断が含まれています。

 

それゆえに、より中立的な寛容という言葉を選択しました。

私にとっては「甘受」という言葉は適切ではありませんので。

 

さて、この寛容は嫌なものを受け入れるために、

あえて積極的な価値をその中に見出したりすることもあります。

先程の善悪における相対主義を使って得た善悪の多元性ですね。

 

しかし、原理的な意味での寛容はそのままの姿を受け入れることを意味します。

ただ、嫌なものを直接受け入れることは単なる自らに対する暴力に過ぎません。

それでは、自分に対する寛容が達成されないため、矛盾を引き起こします。

 

そのような矛盾を引き起こさないために、

何らかの手段を施す必要があります。

 

その一つが以下に述べる「リフレーミング」です。

 

フレーミング

 

嫌なものを嫌なもののままで受け入れると強烈なストレスがかかります。

そのようなストレスを真正面から受け止め続けると

やがて心が終わります。

 

そのため、原理的な寛容から修正された寛容を現実では用いる必要があります。

 

原理的な寛容は物事をそのままの姿で受け入れます。

それに対して、修正された寛容はそのままの姿で受け入れるのではなく、

自分の認知にちょっとした工夫を加えます。

 

認知に工夫を加え、嫌なものにも実はいい面があると考えることや

自分にとってのメリットを考えること。

それをリフレーミングといいます。

 

先程の善悪の相対主義から得られた善悪の多元性を応用すれば、

「相手にとってはそれをする必要があったんだろうな」

というような自然な受け入れ方の可能性が導かれます。

 

このリフレーミングを行わないと感情が暴発するため

非常に危険です。

 

フレーミングをしないとだいたい1ヶ月ぐらいしか持ちません。

経験則ですね。

 

それでは持続可能な寛容が達成不可能です。

フレーミングを行って、受け入れるための準備をしましょう。

 

嫌悪感との戦い

 

常に寛容を達成し続けるためには常に嫌悪感と戦うことになります。

 

ありとあらゆる手段を用いて、嫌悪感を消し去る必要があります。

 

その手段の中で私が一番利用しているのが

倫理における相対主義です。

 

先程あげました、リフレーミングもそうですね。

 

しかし、そのようなリフレーミング相対主義にも限界があります。

限界が訪れたときは諦めましょう。

 

単純に受け入れることができないのならば、こちらから離れましょう。

逃げるという手段を用いましょう。

 

どうしても受け入れることができないのならば、

逃げることで嫌な物事を認識しないのが一番の手段です。

 

感覚器官による反映を受けさえしなければ、

寛容をあえて自発的に行う必要もなく、

常に寛容が達成された状態が手に入ります。

 

消極的な意味での寛容ですね。

 

まあ、その弊害として外に出るのが苦手になってしまったのですが、

外に出るのが苦手でも外に出て、ご飯を食べるためにお金を稼ぐ必要があります。

 

フレーミング相対主義を用いることで

なんとかして寛容の状態を保ち続けたいと思います。

 

まとめ

 

今回は自分の根本的な行動規範である「寛容」について考えてみました。

翌々考えてみると、恐ろしいほどに条件が厳しく、

日々、外に出るだけで疲れる理由が簡単に頷けます。

 

だからといって、この寛容を止めることはできませんし、

止めるつもりもありません。

 

皆様にはこのような生き方があるということを知っていただきたかったのです。

宗教的とも言える、この生き方がいつの間にか自然に培われたこと。

そこから逃れられないこと。

そして、逃れるつもりはまったくないこと。

 

それが私、ほうじょうです。

 

割と片付いていない文章でしたが、ここまで読んでいただいた方に格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

 

皆さんはストレスなく過ごしてくださいね。