うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

哲学科が考える障がい者雇用水増し問題

 

はじめに

 

形なき無知が形ある差別につながると思う、ほうじょうです。

 

今回は

 

なぜ障がい者雇用水増しが問題になっているのかを哲学的な面で論じます。

具体的にはなぜ障がい者雇用水増しなどという問題が起こり得たかを人々の意識レベルで考えます。

 

障がい者雇用水増し問題

 

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34663670Y8A820C1MM0000/

障害者雇用水増し3460人 国の機関の8割、雇用率半減

 

障がい者雇用に死亡職員を算出するなど不正な会計を行っていることが発覚しました。

この問題は障がい者にとって非常に衝撃的なものでした。

もちろん私にとっても衝撃的でした。

 

国家が課した義務を国家自らが果たしていないという事実が明らかになってしまったからです。

 

この問題はだれか一人の問題にとどまりません。

障がい者だけの問題にもとどまりません。

一般の人の問題でもあります。

 

なぜなら、

「国家による福祉」

に対する信頼が0になった事件だからです。

 

日本国は国民に対する義務を果たすつもりがないことが明らかになってしまったのです。

 

福祉とは何か

 

福祉とは人間のさまざまな困りごとの解決を国家などの超大金持ちが支えようということです。

そのために人々は国家にお金を税金として収めて、もしもの時のための保険とします。

 

ちなみに超大金持ちといっても、アメリカの超大企業程度では話になりません。

 

例えば、ゼネラルモーターズという会社が昔ありました。

実はこの会社、一回つぶれてます。

理由は福祉を充実させすぎたから。

 

この例から、大企業であっても、完全な福祉を成しえることはできないということです。

 

だから、国家という超大金持ちにしか福祉は達成し得ないのです。

 

福祉の可能性は国家にしかない

 

すなわち、単純に可能性の問題として国家以外に福祉はなしえないということが明らかになります。

 

私たちは国家に福祉を望み、信頼し、税金を収める以外のすべを持たないのです。

 

にもかかわらず国家にしかなしえないはずの福祉がほかならぬ国家によって侵害されました。

 

すなわち、国家は私たちに義務を課すが国家は私たちに対する義務を果たさないということが明らかになってしまったのです。

 

福祉に対するお金の問題

 

福祉は非常にお金がかかります。

当然人手もいります。

それゆえに現在、私たちは国家に税金を納めるという形で福祉を国家に委託していることになります。

税金を収めるというのはそういうことなんです。

 

そのような税金を払う義務を国民が果たしているのにも関わらず、国家の側が福祉を提供するという義務を果たしていないのです。

 

これはまず正義の面からして単純に不公平です。

そして、国家自らが国家の制定した法を破ったという事実が現在残っています。

 

なぜ障がい者雇用水増しに至ったか

 

ではなぜ国家は自ら制定した法を投げ捨てたのでしょうか?

 

そこには人々の意識に根深く侵入している

 

障がい者は働くことができない」

 

という偏見によるものです。

 

障がい者雇用水増しの3つの問題

 

それでは改めて今回の問題をまとめます。

以下の通りです。

 

  1. ほかならぬ国家による水増しであること
  2. 国家によってしか福祉は達成し得ないこと
  3. 障がい者が働けないという思い込みを国家ぐるみで行っていること

 

以上の3点が問題になります。

 

信頼によって成り立つ福祉

 

福祉は人間が突然病気になったり、突然災害に巻き込まれたり、もともと病気を持っていたり、そういう人が再度社会で役割を持つために手助けをする構造のことです。

 

障がいを持っているか否かは関係ありません。

誰もが平等に抱えるリスクを国家に対して税金を納めることで分散しようという意図を福祉は持っています。

ほぼ保険ですね。

 

そして、福祉は莫大な金銭が必要です。

単純にかける費用の多さだけでなく、保有している現金の量も重要です。

すぐに動けなければ、福祉は成り立たないためです。

 

例えば、自動車が自損事故で壊れてしまったとします。

そして、自動車保険に入っているのに対応に半年かかるとしましょう。

すぐに自動車を直さないといけないのに半年も自動車に乗れないのです。

 

つまり、即刻動かせる現金や人員を確保する必要が福祉にはあります。

 

個人だけでなく、前述の通り、ゼネラルモーターズのような超大会社にすら福祉は達成できませんでした。

 

よって福祉は消去法として国家によってしか構造的に不可能なのです。

だから、誰もが国家に対してお金を払い、福祉をお願いするのです。

 

道路を作ってもらったり、治安を維持し安心を作ってもらったり、そういうことを私たちはお金を払って国家に委託しているのです。

 

このような契約を国家は今回自ら捨て去りました。

捨て去っていたことが明らかになったというほうが正しいでしょう。

 

これは障がい者に対する福祉の話でした。

しかし、障がいの有無に限らずに日本国が福祉を軽視していることが今回明らかになりました。

 

 

障がい者だけの問題ではない

 

明日は我が身です。

突然足が動かなくなったら?

そうした場合、国家は守ってくれません。

 

今回の事件はそういうことを意味しています。

 

今回の事件は日本国による

「福祉を軽視してますよ宣言」

です。

 

すなわち、日本国の上のほうの人は初めから障がい者に対する福祉などありえないという思い込みをしているのです。

障がい者が働くことなど到底できないと国家を運営している人が思い込んでいるのです。

 

ちょっと道具を整えてくれるだけでいいのに……

 

障がい者には働く能力がない」という思い込みこそが今回の不合理な問題を生み出しました。

 

障がい者の方々は多少の手助けが必要です。

しかし、手助けさえあれば、普通の人と同等かそれ以上に働くことができます。

 

例えば、メガネのようにかけていれば、普通と全く変わりがないように、

障がいを持つ人は各種障がいに合わせて仕事をできるように道具を手に入れるようにしています。

 

にもかかわらず、国家は積極的に手助けを放棄しました。

手助けというコストを支払えば、リターンが得られることが明らかなのに

国家は「障がい者は働けない」という偏見によってそのリターンを捨てました。

 

あえて言うならば、国家の目線からしても機会を損失していることになります。

完全に不合理です。

 

日本国は労働力不足にあえいでいるとよく言われます。

にもかかわらず今回の問題がどうして起こり得るのでしょうか?

その状態で障がい者の雇用をあえて行わないことがどうしてできたのでしょうか?

なぜあえてそのような愚行を国家は行おうと考えることができたのでしょうか?

 

それは国家にかかわっている人が

障がい者に何かを生産することは不可能だ」という観念をもつからです。

このような非常に強い思い込みがあえて不合理な選択を国家にさせました。

 

障がい者も働ける

 

私はこの思い込みに反対します。

 

私は実は障がい者でもあります。

しかし、仕事をするために適切な器具を用いれば仕事ができます。

 

普通の人がメガネを利用するように私は耳栓を利用します。

 

耳栓を利用することで日々の疲れを減らすことができます。

そうすれば、働くことができます。

 

このように障がい者の側も自分で対処している部分は極めて多いのです。

それでも、何とかならない部分は少しだけ手助けをしてくださいとお願いしているだけです。

 

しかし、国家はそのお願いをはねつけました。

今回はねつけていたのが明らかになったのです。

 

障がい者雇用水増し」で誰が損をして、誰が得をしたか

 

国家は障がい者は働けないというきめつけをして自ら機会損失を生み出しています。

 

そのような愚行は政府の人にとっても良くありません。

当然、働けたはずの障がい者側も全く得していません。

今回の問題は一切だれも得をしていないのです。

 

ただ一つの偏見のために……

 

誰も得をしないのにこの問題が生じたことに本質があります。

障がい者雇用水増し問題」はただ一つ偏見のためだけに生じたということです。

 

障がい者は働けない」

そういう偏見のためだけに今回の問題は引き起こされたのです。

 

障がい者差別解消法って知ってる?

 

現在、国家主導で「障がい者差別解消法」が施行されています。

 

その旗印になるはずの政府がこの体たらくでは障がい者差別が解消されるはずもありません。

即刻改善しなければ、国家は義務を果たせていない状態が続きます。

 

誰が責任を取るかが問題になっていますが

今回の問題に携わった人間すべてが責任を取るべきです。

 

そして、その責任の内容とは

 

障がい者は働けない」という偏見をなくすことです。

誰かの首を切れば、解消する問題などではありません。

 

国民は義務を果たすが……

 

今回の問題で浮き彫りになったのが

障がい者が労働の義務を達成しようと努力しても国家自らがその努力をくじこうと務めたことにあります。

 

国家が障がい者を労働力と見ていないという意識の問題が現れています。

 

このような意識の問題はだれか一人が首を切られることによって解消する問題ではありません。

 

すべての人が「障がい者は働けない」という偏見をなくすという責任を果たす必要があるのです。

 

まとめ

 

今回は障がい者雇用水増し問題を国家主導で行うことがどうして問題なのかを哲学の面から論じました。

 

まず、国家によってしか福祉は達成し得ないという事実があります。

そのような事実に反して、国家主導で障がい者に対する福祉を放棄したことに今回の問題の本質があります。

 

そのような福祉の放棄の裏側には

障がい者は働くことができない」

そういう思い込みがあると指摘しました。

 

そして、

障がい者は働くことができない」という思い込みに対する反論として

眼鏡や耳栓・杖の例を出しました。

 

このような自己対処ができるにも関わらず、障がい者雇用をしないのは政府にとっても不利益であり、完全に不合理です。

誰も得をしません。

 

にもかかわらず今回の問題が生じたのは個人のレベルの意識にあります。

 

障がい者は働けない」

 

このただ一つの偏見のために今回の問題は引き起こされました。

 

この問題は明らかに障碍者差別解消法に反しています。

それを国家が主導したのです。

当然、しかるべき責任ををとるべきだと思います。

 

そして、その責任とは

私も含めて国民すべての人が

障がい者は働けない」という偏見を捨てることです。

 

誰か偉い人の首を切って、終わりという問題では決してありません。

 

今回の問題は福祉における国家の認識不足から生じた問題です。

私の中では常識だったことが、国家では全く常識ではなかった。

 

こういうことはままあります。

 

今回、この記事を発信することで少しでも多くの人が

障がい者は働けない」という偏見を捨て去るという責任を自覚してもらいたいと思います。

 

特に上のほうの立場の人こそこのような偏見は捨て去るべきです。

 

あなたはビジネスチャンスを自ら捨てています。

国家は今回ビジネスチャンスを偏見のために自ら投げ捨てました。

反面教師にしてください。

 

みなさまも本当に合理的な選択が何かを考えていただきたいです。

 

今回の問題は障がい者だけのものではありません。

 

健康な人でも突然手足を失うことはあり得ます。

うつ病になりえます。

統合失調症になりえます。

 

そのようなリスクを現在の国家は福祉を持って対処できないということが浮き彫りになりました。

現在障がいがある人だけの問題ではないのです。

 

障がい者は働けない」という偏見がなくなるまでこの問題は解消されません。

明日は我が身です。

今日にも我が身になるかもしれません。

それを決してお忘れなさらないよう願っています。

 

読了ありがとうございました。