うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

哲学の異端児 相対主義の精神について

 

 

はじめに

 

絶対的な真理などいらない、ほうじょうです。

 

今回は

 

確かなものを発見するという確知学としての哲学ではなく、

確かなものなど何もないことが確かであるという意味での

矛盾した思想の相対主義について論じたいと思います。

 

昨今のグローバル社会はこの相対主義が前提となっていますので、

相対主義という概念とその矛盾について知っておくことに損はないと

思われます。

 

ありとあらゆる文化 ありとあらゆる宗教

 

先日、私はものすごく広い多神教を信じているというお話をしました。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

この記事の思想になぜ至ったのか。

それは私が相対主義的な環境に育まれてきたからです。

 

この記事を深めていきたいと思います。

 

現在、私は日本に住んでいます。

日本のテレビを見て、日本の小説に触れて、日本のアニメに触れて生きています。

 

しかし、同時に海外の情報、特にアメリカや中国の情報を常に受け取っています。

 

ついでに言うと、私は掲示板という最も無責任でむき出しの発言がされる場所に

常習的に訪れています。

 

そういった状況では自分の信じてきた価値観が本当に正しいのか、疑問を持ちます。

 

疑問を持ってなお、どの価値観も等しく正しいと考えること。

そのように考える人の状況を考慮し、受け入れること。

それが相対主義です。

 

どれだけ嫌な発言でも吐き気を催す絵でも直視し、受け入れること。

それが相対主義です。

 

割と厳しめな倫理に近い哲学的思想の一つです。

一般的には普通の考えですが、哲学的に突き詰めると

最も過激な独我論と並ぶほどに相対主義は過激な思想となります。

 

ではその理由は何でしょうか?

 

本来は発言権がなかった人たちのうめき声

 

相対主義がなぜ過激なのかといいますと、

過激な思想でも受け入れなければならないところです。

 

例えば、最近はSNSの発達により本来は表に現れることのなかった

狂った言論があふれるようになりました。

 

相対主義はそのすべての言論に等しく価値を認めます。

 

レイシストであろうが、インターネットフェミニズムであろうが等しく、です。

 

ここに相対主義の問題点があります。

社会の秩序、安定を脅かす言論ですらも相対主義は原理的に受け入れる必要があります。

 

それゆえに一般的な哲学、確知学としての哲学においては

相対主義を何とかして反証しようという方向に進んでいます。

だから、相対主義は哲学の中でも最も過激な思想として扱われているのです。

 

しかし、インターネットから産み落とされた思想に触れ続けた私としては

唯一絶対の真理があると考えるよりも

各種の信念それぞれが同等に正しいと考えるほうが自然なことです。

 

私の感覚では「唯一絶対の真理がある」と考えるほうがよっぽど過激のように思います。

 

ついでに言うと、人は油断すれば、必ず相対主義的になります。

何を信じていいかわからなくなります。

そういう時は「人それぞれだよねー」という言葉で自分を守ります。

 

「人それぞれ」という言葉に代表される精神のことも相対主義的といいます。

 

私はこの「人それぞれ」を突き詰めたいと思います。

なぜなら、私にとってはありとあらゆる矛盾した価値観が等しく正しい状態こそが

唯一の真理であると感じているためです。

 

これが相対主義の原理的矛盾です。

 

相対主義の原理的矛盾

 

相対主義はありとあらゆる価値を同等に扱います。

にもかかわらず、前述のとおり、ありとあらゆる価値が同等に正しいということだけが

相対主義においては唯一絶対の真理、すなわち特別扱いされています。

 

相対主義としてはありとあらゆる価値が同等に正しいとするならば、

相対主義」という心持すらも相対化される必要があります。

相対主義相対主義という価値観すらも相対化する必要があるのです。

 

要するに相対主義は自らもそのほかの真理と同等に扱われるべきなのに、

自分だけを特別扱いしているという矛盾があります。

 

私はこの矛盾を何とかしようとしましたが、何とかなりませんでした。

そのため、私は開き直りました。

そして「相対主義という唯一絶対の価値」をいったん信じることにしました。

 

私はこれを「寛容の精神」と呼んでいます。

この「寛容の精神」を私は絶対的に正しいと考えています。

 

本当は相対主義が唯一絶対の真理になどなってしまってはいけないのですが、

私の頭ではこれ以上先に進むことができません。

歯がゆいところです。

 

限界を感じ、しばらく哲学から離れて、理系分野や生物学を学んできました。

ですが、私の相対主義に対する確信は結局変わりませんでした。

 

そこでいったん私の相対主義に対する信念を形にしようと思ったわけです。

 

インターネットはすべての発言を等しく発信する

 

相対主義はグローバルな世界で特に発達します。

 

例えば、私は常にインターネットに触れています。

文字通り起きているときは常にインターネットに触れています。

 

特に「まとめサイト」というありとあらゆる文化の中で最も低俗とされる

文化に触れ続けています。

そこにはわけのわからないことを延々と主張する人がいます。

 

私はその人がどのように育ち、どうしてそのような話をする必要があるのか。

それを考えます。

 

そして、結論として「そういわざるを得ない。その信念こそ彼(彼女)にとっての絶対の真理であることを認める必要がある」というものが出ました。

出自や学んできたものや与えられてきた苦痛やそういったものを想像します。

そして、そのような背景を考慮します。

 

だから、私はあなたの信じるものを信じます。

相対主義とはそういうものです。

 

相対主義は哲学というよりも倫理に近い

 

相対主義は哲学というよりも倫理に近いものです。

何らかの事情で狂わざるを得なかった人を肯定するための唯一の論法だと

私は感じています。

だから、私は相対主義を手放しません。

 

寛容の精神を達成するためには

相対主義に含まれた矛盾を受け入れざるを得ないと思います。

 

相対主義は受け入れることしかできないがゆえに最も過激である

 

ついでに相対主義テロリズムに反抗するための力を一切持ちません。

テロリズムはそうせざるを得ないほどに追い込まれた人の思想だからです。

 

私は相対主義を突き詰めてしまったため、

テロリズムに対する発言権の一切を手放しています。

 

そして私も社会の不安や良俗というものを信じています。

「公共の福祉」に反しないように努めています。

 

結果相対主義と「公共の福祉」の板挟みになり、

それゆえに私はテロリズムに対する発言権を失っています。

 

仕方がないので、ほかの人にテロリズムに対する反論は任せたいと思います。

相対主義ではテロリズムに反抗することはできません。

ついでに言うと私もテロリズムに対して語る言葉を持つことができません。

 

相対主義は寛容を突き詰めることで生まれ、

寛容はありとあらゆる不愉快なことを受け入れることを意味します。

 

だからこそ、相対主義は最も過激な思想になるのです。

 

狂った思考もまた価値の一つ

 

相対主義

寛容という嫌なものを受け入れる精神を突き詰めた先に存在する思想です。

 

体がどれほど不愉快を感じたとしても狂ったものを排除したいと感じても、

そこに対して寄り添う必要があるのが相対主義です。

 

何度も言いますが、相対主義は哲学というよりも個人的な倫理のようなものです。

多様化した価値観に適応しながらも、他人を受け入れるための手段が相対主義です。

 

ものすごくストレスがかかるので、やめてほいたほうがいいです。

早死にします。

私はそれでいいのですが、ほかの方には早死にしてほしくないですね。

 

相対主義的な表現の自由

 

昨今、常に問題になっている表現の自由相対主義的なものですね。

 

他人を馬鹿にするような絵、不愉快を表明する言論、

そのすべてを受け入れることが表現の自由です。

 

「公共の福祉」というのが唯一表現の自由を制限しますが、

表現の自由の中に「公共の福祉」の概念は本来的には含まれていません。

後付けです。

 

同様に相対主義の中にも本来的には人肉食などを否定する能力は備わっていません。

相対主義は自分に制限をかけることができません。

 

書けば書くほど過激な思想だとわかってきますねー……。

こんなん信じてたら、そりゃあ疲れるよと納得し始めてきます。

 

原理的な相対主義から修正された相対主義

 

相対主義が恐ろしく無分別な寛容であることがわかりました。

 

そして、テロリズムなどの暴力に一切の対抗策を持たない相対主義

当然批判の対象となります。

 

だから、相対主義者は本当はテロリズムに反抗するだけの論理を組み込む必要があります。

そのため、相対主義の中には全く含まれていないので、

相対主義とは別のところから持ってくる必要があります。

 

人権概念や他人を傷つけることをおもんばからないように努力することを

導入しなければなりません。

 

何とかテロリズムなどの暴力だけは寛容してはならないと

考え直す必要があります。

 

原理的な相対主義、突き詰めた相対主義では難しいのですが、

社会で相対主義者として生きていくためには絶対に必要な努力です。

 

私も頑張ってます。

恐ろしく矛盾しているのですが、なんとかします。

 

相対主義とは矛盾しているとしてもテロリズムには反抗する必要があります。

どの程度反抗すればいいのかは考えどころです。

考えなければならない時点ですさまじく過激な思想ですね……。

 

書けば書くほど粗がでます……。

それでも、私は相対主義を狂信的に信じていますね。

やめられません。

 

私はやっぱり倫理に狂っているようです。

 

まとめ

 

今回は相対主義について考えてみました。

相対主義は正直に言うと、自分にとっても他人にとっても非常に危険な思想です。

ありとあらゆる善悪をすべて受け入れる必要があるためです。

 

そのため、相対主義に制限をかける必要があります。

制限のかけ方には議論の余地がありますが、

制限を掛ける必要があることだけは確かです。

 

制限をかけなければ自分が危ないばかりではなく、

他人も危険にさらしてしまいます。

 

ままならないものです。

それでも、折り合いをつけて相対主義者たることを目指し続けます。

今は時代が相対主義でも生きられるほどに柔らかいのですが、

締め付けが激しくなれば、相対主義は糾弾されるでしょう。

 

その時に私はどう動くでしょうか?

その時になるまでわかりません。

相対主義に殉教するようなことはしてはならないんですけどね……。

相対主義は殉教を許してくれるほど理由を作ってはくれませんので……。

 

ここまで重い文章を読んでくださった方には格別の感謝を申し上げたいです。

 

ご読了ありがとうございました。