うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

宗教と実存主義の2種の劇薬 苦痛をオブラートに包むには?

 

 

はじめに

 

時には形なき者同士をつなぎ合わせたい、ほうじょうです。

 

今回は

「劇薬」という点で一致した宗教と実存主義の類似性を考えたいと思います。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

この2つの記事をつなぎ合わせてみました。

 

自分の結論はどちらも倫理をもとにつながっているというものです。

そして、倫理という軸に従って、実存主義と宗教がつながっていることがわかりました。

 

そのようなお話です。

 

倫理は強制である

 

なんとなく思いついたんですが、

宗教も実存主義も倫理を重視するという点で一致しています。

 

重視するというよりも必須条件ですね。

あえて言うならば、

宗教も実存主義も自分によって自分に他者に対する倫理を強制します。

簡単に言うと

「自殺しちゃだめだよ」

「むやみな殺生はだめだよ」

そういう点で一致しているということです。

 

ちなみに倫理を自分に強制できていない場合、

その人は宗教者でも実存主義者でもありません。

 

ただ単に迷惑な人と呼ばれます。

絶えず自滅しながら周囲を自滅に引きずり込もうとする様には

倫理などありません。

 

宗教においては律法によって、

実存主義においては自由によって、

倫理を強制されます。

 

倫理の強制ができていなければ、宗教者でも実存主義者でもありません。

 

割と厳しい条件です。

疲れますので、やめておいた方が良いでしょう。

 

宗教と実存主義の差

 

さて、ここまで倫理という点で宗教者と実存主義者の両者はつながっている。

そんなお話をしました。

 

では、逆に宗教と実存主義にはどのような差があるのでしょうか?

 

まずは宗教と実存主義のそれぞれの定義をしていきます。

これらの意味を一つに絞っておかなければ、混乱してしまいますからね。

実際、私も定義をせずに失敗した経験があります。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

おとといの記事ですね。

今回の記事も間違い満載かもしれません。

都度修正していきます。

 

さて。

 

それでは慎重に定義していきたいと思います。

 

まず、

宗教は一般的なイメージとしては新興宗教のことを表すと考えられています。

ですが、ここで用いられる宗教の意味はもう少し広いものです。

一神教多神教、黒魔術や占い、俗説や都市伝説などなど。

そういった信じられているものすべてを宗教という言葉で表現しています。

 

抽象的に言うと

形のないものや諸科学において根拠を付与されていないものを

いったん宗教と呼んでおきます。

 

(諸科学自体も信念であるという点で宗教的かもしれません。

 ものすごく難しい話なのでここではせずに、別の機会に行います。)

 

さあ、次は実存主義の定義(一つに定められた意味)です。

 

実存主義は哲学における一分野です。

哲学はかつて宗教、特にキリスト教と分かち難く結びついていました。

 

しかし、

「宗教とか哲学にいる?」

そういう発想から哲学から宗教を分離するための様々な工夫がされました。

 

中世の終期のオッカムなどに始まり、カントによって大成され、

ニーチェによって宗教と哲学の分離を宣言された。

そういった歴史のもとに成り立つ哲学の歴史において実存主義は成り立っています。

 

さて、実存主義者の始祖はキェルケゴールと呼ばれています。

彼は神学の立場から絶望について論じました。

 

どれだけあがこうと絶望から逃れることはできない。

あがくこと自体が絶望であるとキェルケゴールは主張します。

 

この生命の苦しさ、生にあがくところに実存主義の本質はあります。

しかも、それを神なしでやらなければなりません。

何にも頼ることができず、ただ苦しみを引き受けること。

 

絶対者に救いを求める可能性のある宗教と実存主義の違いはそこにあると思います。

 

要するに実存主義と宗教の違いはすがるあてがあるかどうかです。

つまり、実存主義とは苦痛を一切のオブラートなしで引き受けることを意味します。

家族も友人も自分もすべて取っ払って、実存主義は存在します。

 

実存主義は存在の原初状態です。

あえて言うならば、飢餓状態や絶望が常である野生の世界を実存主義といいます。

 

苦しいけど存在してしまう。

苦しいのに食べてしまう。

 

それが実存主義です。

 

さて、これで定義は終わりました。

まとめましょう。

 

宗教の定義広くとって信念一般を意味します。

実存主義は哲学の文脈における存在の原初状態を意味します。

 

宗教は作られたものですが、実存主義は強制的に押し付けられています。

しかも、実存主義においては押し付けてくるものが何かすらわからないのです。

 

偶像の有無

 

定義が終わりました。

それでは、宗教と実存主義の差を話していきましょう。

 

宗教は偶像という、もろくはかないものに縋り付くことができます。

たとえ、一神教であろうと偶像崇拝から逃れることはできません。

(天使などが例に挙げられます。キリスト教カトリックなどではジーザスの貼り付け絵が書かれていますね。これは完全に偶像崇拝です。)

 

それに対して、

実存主義は偶像すらもありません。

自分にすらも縋り付くことができません。

 

あえて言うならば、倫理でしょうか?

 

……倫理であっても縋り付くことはできません。

なぜなら、倫理はただ強制するだけだからです。

救済などはありません。

ただ何らかの強制、使命感によってのみ生存してしまうこと、それが実存主義です。

 

苦痛を無神論的に真正面から受け止める。

一切のオブラートなしに劇薬を飲み干すこと。

 

それが実存主義です。

 

宗教には神という縋り付くあてがあります。

オブラートで包まれた劇薬です。

 

実存主義にはそういうのは一切ありません。

劇薬をオブラート無しで飲み干そうという試みです。

 

倫理のとらえ方の違い

 

倫理を持つという点で宗教と実存主義は一致しています。

しかし、倫理の受け止め方が全く異なります。

 

宗教においては

神様の命令、あるいは肯定によって倫理は成り立ちます。

 

それに対して、

実存主義は自分すらも理由にできません。

ただ苦痛を真正面から引き受けます。

目の前の他者から無限に引き出されてくる義務を受け止めること。

それが実存主義です。

 

実存主義が廃れた理由についての憶測

 

ここまで実存主義と宗教の違いをお話してきました。

 

ここで

「結局実存主義って何だったんだろう?」

「全然聞き覚えがないなあ」

 

そんな方に向けて、現在実存主義が廃れつつあるという現状をお伝えします。

理由は単純。

実存主義が厳しすぎるためです。

実存主義は恐ろしく厳しいので、直視するには精神が耐えられないのです。

 

実存主義における倫理に理由などという甘えたものはありません。

ただオブラートなしに苦痛を引き受けることを実存主義といいます。

 

そのようなあまりにも厳しい状況に人が耐えられるかと聞かれれば、

耐えられる人がいるか怪しいと私は答えます。

 

できる人が居たとしても、恐ろしい量の修練を積まなければできないでしょう。

それは宗教の荒行と変わりはなく、宗教の荒行よりも厳しいものでしょう。

 

実際、私も限りなく実存主義者に近いのですが、

それでも普通に偶像崇拝をしています。

 

好きなゲーム・アニメ・漫画のキャラクターもいます。

小説のキャラクターも好きです。

彼らの在り方を参考に自分の倫理を強化したり、再構築したりします。

 

仏像とかも拝みますし、初詣にも行きますし、自分の心の神様というものもいます。

 

もしもそれなしで生きなければならない、

気晴らしをすることができないという状況に追い詰められたとき、

私は耐えることはできないと感じています。

 

実存主義は知識程度に留めた方が良いでしょう。

 

存在論における第一段階としての実存主義

 

実存主義はどちらかというと存在の第一段階を表していると思います。

ただ存在する。

ただ食べる。

ただ眠る。

ただ生殖する。

 

そういった状態についての研究とその成果を実存主義というのだと思います。

 

そんな状況をまともに受け止めれば、発狂してしまいます。

というよりも

実存主義をまともに引き受けてしまったことを発狂というのでしょう。

 

実存主義存在論における基礎研究です。

 

実存主義において倫理は強制的に課されています。

そういった強制的に課された倫理をオブラートに包む。

それが宗教なのではないでしょうか?

 

存在論的な意味での第2段階。

オブラートに包まれ、何とか直視にたるほどの存在が宗教だと思います。

 

少なくとも、実存主義の土台そのままに居座るのではなく、

居心地のいいように作り変える。

そのため、実存主義と宗教は倫理という点で陸続きです。

 

実存主義に耐えられないとき、人は宗教を信じます。

何らかの信念を持ちます。

生きる上では割と自然だと思います。

 

地獄とすらも呼べない苦痛に対して対処するために

宗教はあるのです。

 

ここまでかなり話が長くなりました。

 

いったんまとめてみます。

 

実存主義に耐えるための装飾としての宗教

 

実存主義は人や動物、生命一般において最初に経験する地獄に似た

倫理の強制状態のことです。

 

そこには強制的に存在を保つという倫理や存在に対しての強制的な配慮があります。

 

しかし、そのような強制に対して人々は耐えることはできませんでした。

だからこそ、宗教が発達したのだろうと思います。

ここは憶測です。

単に私ならば、そうするという話です。

 

皆さんは実存主義的に生きますか?

 

宗教は倫理に理由をつけてくれます。

神様が命令してくれるのです。

命令されるということは責任を神様が引き受けるということです。

 

責任を引き受けるのは面倒ですからね。

 

強制的に存在を保つことも

神様に愛されて存在することで祝福されたものと考えることができます。

 

ちなみにキリスト教では牛などは神様に与えられた家畜と考えられています。

実存主義の状態から解放してくれているというわけです。

 

食べなければならないという強制に対する不快感を神様は軽減してくれます。

 

そういった軽減がなければ人は生きられないでしょう

ほかの人はどうかはわかりませんが、私は生きられません。

 

倫理に狂い、

人間たることを目指すほうじょうですら実存主義の重みにはうんざりします。

 

念押しとして実存主義的に生きると1日も持たずにつぶれるため

実践するのは控えてほしいなと思います。

 

こんな重い話しておいて何様だと言う話ですが……。

それでも、無宗教実存主義には挑まないでほしいなと思います。

 

まとめ

 

今回は実存主義と宗教が似ているなあと感じたため、少し考えてみました。

 

そこで実存主義と宗教が地続きなのでは?というアイデアが浮かびました。

 

実存主義はありとあらゆる生命に課せられた責任や倫理を含めた原初的な存在論です。

食べること・生殖すること・安全を求めることなどへの強制的な責任。

それでいて、他者を尊重することという強制的な倫理。

 

そういった矛盾した責任と倫理をつなぎ合わせるのが宗教です。

 

私たちは自然に偶像崇拝します。宗教を持ちます。

油断すれば、本当にすぐ偶像崇拝します。

 

家族を大切に生きがいにすること。

好きな作品、キャラクターを持つこと。

これも偶像崇拝です。

形あるものをよりどころにすること全般を偶像崇拝と言います。

 

宗教には矛盾した責任と倫理に一貫性を持たせることができます。

家族を守るために獲物をとってくる。

神様に捧げるためにクマをささげる。

 

矛盾を宗教における偶像崇拝という方法で解消することができます。

 

だから、私は宗教と実存主義は倫理において似ていると感じたんですね。

わかってよかったです。

 

ここまでかなり長く重く苦しい話が続きました。

それでも、ここまで読んでくださった方に格別のご恩を申し上げたいと思います。

 

ご読了ありがとうございました。

私が言うのもなんですが、気負いすぎずに気楽に人生を過ごしてください。

そう願っています。