うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

ディープエコロジーの矛盾 クジラだけがなぜ尊重される?

 

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はじめに

 

よくよく考えたら、生育環境からし相対主義者のほうじょうです。

 

今回は

ディープエコロジーという生命に対する相対主義のお話をします。

 

そして、世の中のディープエコロジストと自認していたり、

呼ばれる人に対する誤解を解きたいと思います。

 

ディープエコロジーは植物も魚もイルカもクジラも同時にその尊厳を認めます。

だからイルカやクジラ「だけ」を尊重する人はディープエコロジストではありません。

もちろん、人に攻撃を加える人もディープエコロジストではありません。

なぜなら、人も同様に尊重されるべき生命だからです。

 

ちなみに、ディープエコロジーは原理的に食に対する矛盾を持ちます。

その矛盾の解消法は大まかに分けて2種類。

 

何も食べないこと。

逆にすべての生命を等しく食べること。

 

どちらかに突き抜けます。

 

ディープエコロジーを原理的にそのまま受け入れると餓死するため、

個人的にはすべての生命を等しく奪っているという自覚を持ちながら、

ごはんとステーキを食べられるような方向になってほしいなとは思います。

 

それでは、本文に移ります。

 

ディープエコロジー

 

皆さんはディープエコロジーという言葉を聞いたことがありますか?

この世の中で最も過激な団体の一つ、シーシェパードの話において

このディープエコロジーの話は出てきます。

 

イルカやクジラは知性を持っている。

だから、その尊厳を確保すべきだ。

 

そんな主張です。

 

ですが、ディープエコロジーの原理はそんな生易しいものではありません。

知性があるから尊重するというのは差別だと断じます。

 

じゃあ、植物は?

じゃあ、魚は?

 

イルカやクジラ「だけ」を保護しようとする人はディープエコロジストの中でも

かなり差別的な人々です。

というかディープエコロジストではありません。

 

大多数のシーシェパードの人々は単にクジラがかわいそうという感情で動いています。

魚や植物に対する権利を主張しないのはおかしい。

 

原理的なディープエコロジーは「生命すべてが等しく重要ならば、当然イルカやクジラも含め、魚や植物などの生物にも権利を認めるべきだよね」というものです。

 

だから、感情にまかせて自分の好きな動物だけを尊重する態度はディープエコロジーではありません。

 

ディープエコロジーの相対性

 

ディープエコロジー相対主義と直接関係があると聞いたことはありませんが、

私は関係していると感じます。

 

なぜならば、ありとあらゆる種類の差別に原理的な矛盾があることを指摘するところが共通しているためです。

 

人や犬猫、イルカやクジラに対しては権利を主張するのに

魚や植物に対しては権利を主張しないというダブルスタンダードに対して批判する立場にあります。

 

本来シーシェパードの思想とは真逆の理論なのです。

 

ちなみに私は割とこのディープエコロジーを思想として受け入れています。

 

そして、ディープエコロジーの方向性の一つ。

「すべての生命を等しく食べる」ということを実践しています。

まあ、普通の人と何ら変わりありませんね。

あえて言うならば、ご飯を残すのはディープエコロジストとしてはありえないとだけ。

 

それで哺乳類の肉も魚の肉も植物の肉も等しく食べます。

場合によっては虫の肉も食べると思います。

 

それは生命の等しさの逆方向の極致です。

 

生命は等しく尊重されるべきである。

でも、何か生命を奪い、自らの血肉としなければ自らの生命を保つことができない。

そんな矛盾において自らの生命に対して妥協し、

だったらすべて出されたものは食べようじゃないか。

 

そのような意味での逆説的な生命の平等をディープエコロジーは包括します。

 

えせディープエコロジー

 

世の中のディープエコロジストはなぜかイルカやクジラの権利ばかりを取りざたしますが、その差別的な態度に割と私は怒っています。

 

植物食もそうです。

植物の命ならばカジュアルに奪ってもいい。

なぜなら、罪悪感を感じないから。

そんな態度に腹が立ちます。

 

それでよくもディープエコロジストを名乗れるなとも感じます。

というか名乗ってないと思います。

 

多分、食に対する矛盾を自分の中で解消するための手段としての植物食でしょう。

しかし、それは差別的な言動であり、私は好きではありません。

 

そのような価値観があることも寛容しなければならない思想的立場に私はありますが、

それはそれとして私の感情がその差別を許しません。

 

腹が立っていたとしてもそのような立場があること、

そしてそこに正しさがあることは認めます。

ただ単に私の身体がそこに嫌悪感を感じるだけです。

 

即身仏

 

じゃあ、植物食をやめたらどうすればいい?

そんな問いかけが当然出ます。

その結末は即身仏、すなわち意識的な餓死です。

大問題ですね。

 

さすがに他人にそれを求めちゃいかんだろうと感じるため、

植物食に対しては食と生存に対する妥協として受け取ります。

それは相対主義的ではありませんし、差別的ではありますが、

生命に対する限りない倫理は感じられます。

 

植物だけ例外にしているだけです。

 

実際、植物に対する扱いには私もほとんど嫌悪感を感じません。

実際、小学校のころ草抜きをしたこともあります。

だから、植物食に至ることは仕方ないことかなとも思います。

 

即身仏が量産されてしまうのは本意ではありませんし。

植物食に追い込まれてしまうほど倫理的な人ならば、植物の生命も認めてほしい。

そしてすべての食べ物を食べられるようになってほしいという感情はあります。

 

だから、自分の中でのいら立ちと思想信条は完全に分割する必要があると思います。

分割できないと矛盾で頓死してしまいますので。

 

まとめ

 

今回はかなり感情的な文章になってしまいました。

ちょっとシーシェパードには思うところがありまして、

最も急進的な差別団体だと感じます。

 

そこには人に対する尊重も魚に対する尊重もなく、

矛盾に対する自覚を一切感じないからです。

 

ただ、感情に従って、漁師の方々に攻撃を加え、

あまつさえそれを正当化するところに

私は原理的なディープエコロジストとして反対します。

 

それはそれとしてお肉を食べ、小麦粉を食べる私は小物です。

うどんと卵が大好きな私は彼らを批判する権利があるのか考えてしまいます。

 

私個人にはないとは思いますが、ディープエコロジーの原理からは批判できます。

それは私の私見ではなく、ディープエコロジーの表明です。

 

肉を食べるのは批判するのに、植物を食べることは批判しない。

そのようなダブルスタンダードに対する指摘をするのみです。

 

卑怯かもしれませんが、現在の私は修行不足です。

いまだにディープエコロジーの2種類の方向のうち生存する法を選択し、寿命はまっとうしたいと考えています。

多分家族や友人、仕事がある限りこの考えは変わりません。

 

なぜならば、私自身の生命もまた同時に尊重されなければならないためです。

差別に当たりますからね。

 

ここまで感情的な文章を読んでいただいた方に格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

植物食って結局食の倫理に対する妥協で良かったのでしょうかね……。