うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

倫理に狂う獣が考える、ヒトと人間の差

 

 

はじめに

 

強烈なストレスで過激な疑問が浮かんだ、ほうじょうです。

 

今回は

 

他人に配慮しない人を人間と言っていいのか?

それはおなかをすかせていないだけの大型の肉食獣なのではないか?

そういう疑問を形にしたいと思います。

 

少し文章にとげがあるかもしれませんが、それは私自身が私に課したとげなので、

気にしないでほしいです。

 

見たうえで避けない人



今日は駅を歩きました。

非常に込み合っていて、人がたくさんいました。

 

私は前日の寝不足と気候の変動から非常に気が立っていたのです。

 

しかし、そんなことは気にせずに私を認識せずに私にぶつかりに来る人がいます。

私は何とか避けました。

それを5回繰り返しました。

 

信じられない。

それが素直な気持ちです。

 

同じ人間と思いたくない。

これが私の本質です。

 

彼らは大型の肉食獣で単に腹を空かせていないだけなのではないか。

彼らは追い詰められれば、盗賊になるという懸念を感じました。

 

私は彼らのおなかがいっぱいであることに感謝して、

急な運動で痛む膝を引きずり、目的地に向かいました。

 

ヒトと人間

 

そんなわけで今私は怒りに狂っています。

だから、突然ヒトと人間の区別などというお話を突然始めました。

 

「あなたは狂っていますね?」と聞かれれば、「はい、狂っています」と答えます。

そして、「当然あなたも狂っているのですがね」と返します。

 

さて、ヒトと人間の区別の話を始めましょうか。

 

端的に生物学的なヒトと各種文化的に成立した人間は区別されます。

人間という概念は近代以降に成立したからです。

ヒトは誕生したその時から人間であるわけではありません。

 

過酷な教育によって強烈に縛られることで初めて、ヒトは人間になります。

 

人間は動物であることに逆らう、倫理に狂った獣です。

倫理に狂うにはそれなりの時間と労力がいります。

なのでヒトたることのほうがより自然状態に近いですね。

 

ルソーなどは人間のほうが本来的だと言っていますが、

私はそうは思いません。

人間のベースが動物であることを否定するのは非常に難しいからです。

 

それに対してヒトは雑食の殺人猿です。

 

おなかがすいていないだけで彼らは他人を他人と見ないだけの能力が備わっています。

人間にはそのような可能性はありません。

なぜなら、人間は倫理に狂っているからです。

 

倫理に狂うとは他人を尊重することです。

どのような他人であろうとどれだけ自分が苦しかろうが相手を尊重することです。

 

それは生物としての在り方からはかけ離れています。

倫理とは、人間とは、不自然な状態なのです。

 

倫理に従えば、他人とは尊重すべき他人です。

赤の他人など人間には存在しません。

視界に映るものすべてに配慮する義務があります。

それが人間です。

 

人間とヒトの差はこのように非常に大きいものです。

人間ではないヒトがたくさんいても全くおかしくはありませんね。

 

ヒトの個体差

 

ヒトは環境や遺伝的要因から非常に大きな個体差があります。

文化的な差などの情報量の差、身体にかかわる差。

それらを含めるとヒトはどのような種類の動物よりも個体差が激しいことになります。

 

そんな状況で他人に人間を求められるでしょうか?

 

求められるわけがありません。

人間たることができるのは偶然倫理に接し、

他人を他人と考えるだけの余裕を持つ必要があるからです。

 

他人にそのような高等技術を求めるのは酷なことではないでしょうか?

 

彼らは人間は欲望に弱いといいます。

その通りです。

人間は欲望に弱いです。

 

しかし、そのような欲望を退けるだけの意思や、欲望を退けようという願望を持つ者だけが人間たる資格を持ちます。

 

人間というのは最も人工的な概念である

再度強調しますが、ヒトが人間になったのは近代以降です。

人間の歴史はかくも新しいものです。

 

さらに教育の格差によって人間概念を身に着けられないか、

そもそも知らないようなヒトも多くいます。

 

そして、体感としてそのようなヒトは数多くいます。

駅構内などがそうですね。

 

人間というのは少数派です。

厳しい倫理の規定に従うことができなければ、倫理を失った獣に転落します。

そうなれば、単なるヒトと変わりませんね。

 

人間になることも人間であり続けることも非常に難しいことです。

 

そのような難しいことを他人に求めることができるでしょうか?

求められるわけがありません。

 

たとえ、自分だけが損害を被ろうと倫理のもとに他人を尊重する。

それが人間です。

 

だから、人間は他人が人間であることを強要することができません。

 

あえて言うならば、人間とは倫理に狂う獣のことです。

多少狂っていなければ、

人間であること、人間であり続けることなど不可能ですからね。

 

というわけで私は卑しくも倫理に狂う獣を名乗りたいと思います。

単なる人であることには飽き飽きしているものですので。

 

ヒトであるぐらいならば、人間という名の狂った獣であることを選択します。

それによって死ぬことがあったとしても、仕方のないことだと思います。

私はそういう個体なので。

困っちゃいますね。

 

まとめ

 

今回はストレスをため込んだ、倫理に狂うバケモノが人間とヒトの違いを語ってみました。

 

ストレスをため込んでいますので、私の内実の薄汚い優越感があふれ出ていますね。

そして、強烈な正義感。

怒りに正当性を持たせた正義感をもとに一気に書き上げました。

 

こんなものは単なる駄文です。

 

それでも皆様にこんなものを公開するのはこんなバケモノが世に潜んでいるということ。

そして、人知れず自滅することを知ってほしかったからです。

 

もしも、人間に興味がないならば、放置しましょう。

勝手に自滅してくれます。

 

ですが、もしも人間たることに興味を持たれているならば、

ようこそ。

私はあなたが倫理に狂うことを歓迎します。

 

ですが、一つお話をしたいと思います。

 

倫理に狂えば、他人に対する寛容を強制され、

生活はひどく窮屈で苦しいものになります。

他人を理解できなくなるかもしれません。

それでも理解する必要がでます。

 

外に出るとき、あなたは常に無理難題を仕掛けられます。

むやみに困難が増えます。

 

それでもよろしければ、人間たることを目指してください。

 

今日、5回もぶつかろうと進むヒトに出会った、倫理に狂う獣より