うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

多文化世界の生命 個体差から考える差別

 

 

はじめに

 

生命すべてに意識があると考える、ほうじょうです。

 

今回は

 

一寸の虫にも5分の魂ということわざを現在の生物学・哲学の知見を利用して説得力を持たせるための記事です。

生物と生物の種差がなんとなく現在の多文化社会(グローバル社会)に似ているように感じたことがこの記事の着想のきっかけです。

 

魂とは意識である

 

皆さんは魂という言葉をご存知ですか?

 

今日日魂なんてないよー、時代は無神論だよ!あっはっはっは、なんて方。

多分魂について狭い意味での解釈を適用しています。

 

魂はそれはそれは広い概念です。

人間はもちろん草石に至るまで幅広く魂が内在すると考えられてきました。

そして今魂は「意識」と名前を変えて現在の私達にも受け継がれています。

 

無機物に魂が存在しないと考えられるようになったのはつい最近のことです。

各地に神社が存在していて、巨大な岩が祀られているという事実があります。

 

これは現在の科学的世界観とは異なる、別種の生命観の証拠なのではと

私は思います。

 

ついでにいうと魂が不滅かどうかは関係ありません。

要するに昔は意識のことを魂と呼んでいたという事実だけが今回重要です。

 

だから巨大な石の圧迫感や年月を経た巨大な老木などに人が魂を見出すのも

不思議なことではありません。

 

その存在感は私たちに意識を感じさせるに十分な迫力を持ちます。

現在の諸科学とは異なる世界観をもとに魂は成り立っているわけです。

 

意識は感覚器官の有無である

 

今のところ、諸科学では感覚器官が存在しない無機物に意識はないとされています。

ここは認めましょう。

今回の主題は虫に5分の魂が存在するかです。

いったん草石の意識の有無は置いておきます。

 

さて、虫の感覚器官の話に移ります。

虫の感覚器官は触覚が主なものです。

彼らは触覚を利用して、ご飯にありつこうとします。

 

虫はすべて本能のみで動いているんだという言説もありますが、

それは誤りです。

虫だって考えます。

 

『生物から見た世界』では知覚標識という名で虫の考えを示しています。

動的平衡』ではミミズが考えながら移動していることを示されています。

 

虫にも意識はあります。

そして、意識とは魂のことです。

 

つまり、一寸の虫にも5分の魂という言葉は正しいものだと言えます。

科学的にもです。

 

各生物種によって感覚器官は異なる

 

今回は虫のお話をしましたが、虫の感覚器官は人間のものと比べて荒いものです。

そして、人間以外の動物でも感覚器官には多様なものがあります。

 

においで主に世界を認識している動物や音のみの世界で生きる動物もいます。

触覚だけで世界を認識している動物もいます。

 

感覚器官が違うということは見えている世界、感じている世界が違うということです。

そこに対して人間に比べて劣っているというのはナンセンスです。

そもそも住む世界が違います。

 

同種の生物でも感覚器官の個体差が存在する

 

例えば、同じ種類の動物でも個体差が存在します。

人間の場合、耳がいい人と良くない人、目がいい人と良くない人など個体差が存在します。

そういった感覚器官の差は世界の見え方、感じ方を変えさせるのに十分な力を持ちます。

 

同じ人間なんだからという言葉は実はナンセンスです。

同じ人間だろうと個体差があります。

 

差別はなぜ生まれるのか

 

以上のことを踏まえて、一つ仮説を提示します。

それは「同じ人間という意識こそが差別を生み出している」

というものです。

 

差別というのは個体間の差を認識できていないがゆえに

起こるのではないでしょうか?

 

人という種族は70億と膨大な個体数がいます。

それぞれの個体すべてを一つの基準で判断すること。

それこそが差別の源泉なのではないかなと思っています。

 

差別というのはほとんどが無意識的に行われます。

自分のみを基準にすることで差別が行われるというわけです。

 

狭い視野こそが最も差別を生み出すのだします。

人には個体差があります。

個体差があることを知ることから差別の話は始まるのではないかなと思います。

 

まとめ

 

今回は一寸の虫にも5分の魂ということわざが実は今でもなお力を持っていることを示しました。

そして、虫と各種動物の感覚器官の差を比較しました。

感覚器官の差は世界の見え方・感じ方の差です。

要するに感覚器官が違えば、住む世界が全く異なるということです。

 

こういう生物固有の感覚器官に基づく世界観を環世界論と呼びます。

『生物から見た世界』で提唱された概念です。

 

この環世界論によれば、同じ人間同士でも感じる世界は変わってきます。

感じられる世界が違うということは別世界で生きていることと同義です。

 

私たちは素朴に一つの空間を想定して、すべての物質がそこに含まれていると考えています。

しかし、それはあまりにも素朴に過ぎます。

たとえ、一つの空間であろうと世界は感じられる感覚によって幾重にも重なっています。

 

世界は一つではありません。

私たちの世界は数えきれないほどに多層にできているのです。

 

だから、世界を一つだと素朴に信じることは個体差の認識を妨げます。

それが差別の源泉なのではないかと仮説を立てました。

 

今回は生物の感覚器官から世界の多様性がどうして生じているのかを論じました。

皆さんがこの記事で世界に対する認識を変えていただければ幸いです。

 

ご読了ありがとうございました。