うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

お情けで大学を卒業した者が考える文系・理系


はじめに

 

制度の穴をつくことで何とか大学生になってしまった側の、ほうじょうです。

 

今回は

哲学が文系なのは割とおかしいのでは?
という気持ちから
そもそも文系理系の区別自体がおかしい
という気持ちをもったため、
ちょっと書き出してみました。

 

文理の区別によって生まれるメリットとデメリットを説明していきます。

 

数学が苦手だけど……

 

私、実は高校2年生あたりから数学の授業についていけなくなったんです。
それ以外の科目では1日休むぐらいならば、すぐに取り返すことができたのですが、数学は1日休むごとにわからないことが増えていきました。

どこで躓いているのかもわからず、数学を拒否し続けました。

 

結果的にセンター数学も惨敗。
大体20点ぐらいしか取れませんでした。

 

ですが、私には一つ道が残されていました。

数学を利用せずに私立の大学を受験するということです。

 

私は割とできた国語と英語の結果だけで愛知大学のみを受験しました。

結果、見事愛知大学文学部現代文化コースに合格。

なんとか大学生になることができました。

 

大学生の段階に達していないのに……

 

そこでは苦手な数学に真正面から向かう必要がある環境ではありませんでした。
おかげでのびのびと学問の楽しさを謳歌しながら、無計画に読書を進めていきました。

 

今、思えば私は本来想定される大学生の段階に達していなかったように思います。
数学ができないし、文系なのにTOEICも400点前後。

こんな有様でもなんやかんやで卒業できてしまいました。

 

私は大卒の資格を持っています。
しかし、その資格は本当に私が大学教育をきちんと受けた結果手に入れたものなのか、今思うと疑問に感じます。

 

数学ができないのに大学を卒業できてもいいものなのだろうかと今更ながら思います。

 

文理を分けるメリット

 

というわけで、文系と理系を分けるメリットを個人の視点から考えていきます。

 

  1. 数学ができない人でも大卒になれる
  2. 国語ができない人でも大卒になれる

 

以上です。

 

文理の区別のおかげで日本の大学進学率は非常に高いものを達成しているのかと思います。
まず、それが本当に国益につながるのかといった問題は置いておきます。
私にはわからないので。


しかし、私個人の問題として考えると、私が文理の区別によってお情けで大卒になった身だということが浮かび上がります。


もろに文理の区別のメリットを享受した身なのです。

 

文理を分けるデメリット

 

では、文理を分けるデメリットを考えましょう。

 

  1. 本来、文理の区別をしてはならない学問も文系か理系に振り分けられてしまう
  2. 数学が非言語だという誤解を生みだしてしまう
  3. 学問同士の関係が薄くなる


文系があるからこそ、大学に進学できた人間が何様だと思われるかもしれません。
実際、その通りです。
私には文理の区別を批判できるような立場の人間ではありません。

 

文理の区別があったからこそ大学に進学できたような私が文理の区別をしてはならないなどというのは自分の基盤を自ら削るような愚行です。

 

それでも、私は文理の区別を批判する必要があります。
私は仮にも学者を目指す人間だからです。

そして、仮にも哲学専攻に所属していた人間です。


文理の区別を批判する資格はなくとも、批判する必要はあります

 

そもそも文系、理系と分けるのは日本などの特殊な国ばかりのようです。


特にアメリカやヨーロッパなどでは哲学をやるうえで数学の素養は必須です。


私は井の中の蛙でした。
それに気づかなければ、数学を理解できないままに一生を終えていたかもしれません。

 

余談が過ぎましたが、各自の考察を行っていきます。

 

哲学に文理の区別は本来導入されてはならない

 

私が現在学んでいるデカルトという哲学者は数学者としての一面も持っています。
なんと彼こそがxy座標の生みの親なのです。

 

そのほかの哲学者も数学はできて当たり前でした。
しかも、各種哲学者の数学に対する評価は非常に高いものです。

 

特にウィトゲンシュタインという論理実証主義の先駆けの方や論理学方面の哲学では数学は必須です。

 

哲学において数学と文章は本来区別されていなかったということを私は幾度でも強調したいと思います。

 

数学は非言語などではない

 

数式は言葉で説明することができます。
つまり、日本語で翻訳することができるのです。

翻訳できるのならば、それは言語なのではないでしょうか?

 

にもかかわらずどうして数学が非言語などと呼ばれるのでしょうか?

 

それは文章はできないけど、数学はできるという方による認識のためでしょう。
そこには、文理の区別もかかわっているように思われます。

 

私としては数学が非言語だとは信じがたいのですが、数学は非言語だと信じている方は数多くいます。

 

学問は学問同士の関係から成り立っている

 

文理の区別を設けることによって、学問間の関係は物理的に、制度的に遠ざけられることになりました。


そんなんじゃ学問の発展は望めないのではないかと私は懸念しています。

 

一応、生物学を独学した私は哲学と生物学の不可分性を感じています。


もしも、文系だから理数系の学問は学ぶ必要がないと思っていたら、このような関係を見出すことはできなかったでしょう。

 

その逆もしかりです。

 

理数系だから文系学問を学ぶ必要がないと考えることも認識を狭くします。

以上のように、学問を修めるという点では文理の区別は害しかもたらしません。

 

お情けで文系大学を卒業させてもらった身ですが、自己批判をするつもりで文理の区別は批判していきたいと思います。

 

まとめ

 

文系・理系の区別は本来学問上あってはならないものです。
学問を志すならば、どちらの素養も持っていてしかるべきです。

 

仮に理系の資質を持っていないとしても、学問を志しているならば、当然理系の学問を学ぶべきです。


また、その逆もしかりです。

私の場合は当てはまらないのですが、数理系の学問ばかりをやって、文系の学問を修めないことは本来あってはならないことです。

 

学問という観点に立てば、文理の区別ほど不合理なものはありません。

しかし、大学進学率という面でみれば、文理の区別は大きな力を発揮します。

 

なぜなら、人は得意不得意があるからです。
文章は得意でも数学は苦手という人。
数学は得意でも文章は苦手という人。

そのような人は日本以外では大学に入る資格を与えられません。

 

しかし、文理の区別があるからこそ文章は得意でも数学ができないという私が大学に入ることができたのです。

 

その点ではこの制度に感謝しています。
私は大卒の資格を手に入れることができたのですから。

 

しかし、仮にも学問を志している身です。
お情けで得た大卒資格などでは学問の世界では通用しません。

 

私はなんとなく無計画に大学時代、生物学や物理学を学んでいました。

今思えば、心の底では文系理系の区別に負い目を感じていたのかもしれません。

 

文理の区別には感謝しています。
しかし、同時にあってはならないものだと思います。

 

人間が学問を志すならば、学問同士の垣根すらも本来はあってはならないものだからです。


それを制度的に作り上げてしまうことは短期的に見れば、
大学進学率を上げてくれるものになるでしょう。

 

しかし、真に学問を修めるならば、文理の区別はあってはならないものです。

立場と本来あるべき姿が矛盾している私ですが、その矛盾を解消すべくこれからも理数系の学問の勉強は怠らないようにしたいです。

 

読者の方が文理の区別をせずに勉強することができるようになることを願っています。

 

ご読了ありがとうございました。

 

 

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