理想と死 菜食主義を考える
はじめに
生命という形あるものと形なきものの中間を考える、ほうじょうです。
今回は
菜食主義って結局植物食べてるじゃん
殺生をしないために菜食主義をやっているならば、植物を殺生していることになるじゃん
と考えている方におすすめです。
不殺生がどれだけ困難か、そして、人の認識によるかをこの記事で知ることができます。生命の維持という根本的な部分を人間が突き詰めるとどうなるかがわかります。
生命のすべてが大切、を突き詰めると……
命は大切なものです。
多分、皆さん多かれ少なかれ同じ思いを抱いていると思います。
人間の命はもちろん重要だと思っているでしょう。
なぜなら、読んでいるあなたは人間という種に含まれるからです。
流石に自分の命ぐらいは大切にしているでしょう。
でなければ、このブログに到達できません。
同時に犬や猫の命も大切だと思っているでしょう。
人類のパートナーだからです。
動物愛護法は彼らの存在を特に重視しているように思えます。
このあたりから人間から離れてきます。
中には犬猫が嫌いな人も出てきます。
クジラやイルカも大切に思っているでしょう。
彼らは人間に並ぶほどの知性を持っています。
それゆえに反捕鯨団体などが設立されるのです。
反漁業団体がいないのが不思議ですが、それはここではおいておきます。
では、それ以外の命はどうでしょうか?
例えば、鳥。
かわいらしいですが、このあたりから食用にされ始めます。
犬や猫は現在ほぼ完全に愛玩用です。
しかし、鳥は食用でもあり、ペットでもあります。
人間から距離が出てきました。
生物における姿形の差異や可愛らしさに隔たりが生まれてきました。
鶏のブロイラーなどの残酷な処遇に異を唱える人もいますが、ごく少数です。
大抵の人が抵抗なく、鶏肉を食べます。
例えば、トカゲやヘビ
ここは嫌悪感を覚える人と覚えない人の両方が現れ始めます。
食べるのも嫌という人が出てきます。
ついでにいうとヘビやトカゲを非常に怖いと感じる人も入るみたいです。
かつて人間が小動物だったときの恐怖を感じているという説があります。
私は割と信憑性が高いと思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか?
ちょっと微妙な領域ですね。
話が脱線してしまいました。
本筋に戻ります。
次は、魚
肉は食べないけど、魚は食べるよということが普通に言われます。
反漁業団体は存在してもおかしくないのに存在しません。
あえて言うならば、漁獲高をコントロールすることで将来も魚を食べられるようにしようという取り組みはあるみたいです。
あまり魚が可愛そうだという意見は聞きません。
魚さん、完全に食べ物として見られていますね。
そして、虫
早急に駆除すべき!と考えている方が多くなります。
食べるのも嫌だ!とも考えられているようです。
犬や猫が好きな方でも蚊は絶滅させるべきと考えている方はいるでしょう。
虫さんも怖いと考える人も多いです。
さっきのヘビさん、小動物からの天敵説と同じように虫さんも天敵説が出てきますね。
そして、今回の本題の植物。
ここまで来ると
そういえば、一応植物も命かもしれないね
考えたことなかった
という方が非常に多くなってきます。
そもそも、植物は命かということが論題に上がるレベルです。
かく言う私も小学生の頃に教えてもらわなれなければ、植物は命であると意識しませんでした。
余談ですが、私は植物に命があるのならば、コンクリートにも命があるのでは?
と考え始めました。
さすがに通学がつらすぎて、考えるのをやめましたが、突き詰めると無機物ですらも生命らしく見えてきます。
植物は生命じゃないのか
というわけで植物に対する人間の態度から菜食主義の趣旨が大まかにわかります。
私は菜食主義者ではないので、当然誤解をしていますが、とりあえずたたき台として菜食主義に対する私のイメージを述べておきます。
菜食主義は人間から離れているものならば、生命として扱わないよという態度です。
命は大切だけど、大切にしすぎると自分が死んでしまう。
だから、一番命らしくない植物で命をつなごう。
そういう態度だと私はイメージしています。
(誤っているならば、正してほしいです。あくまで現時点の私の拙いイメージです。)
それでは、一応生命のはずの植物をなぜ菜食主義者の人は食べられるのかということを考えていきます。
理想とのギリギリの妥協としての菜食主義
多分、菜食主義の方は一度は本気で植物が命かどうか考えたことがあると思います。
しかし、植物を生命と認めれば、菜食主義者の人の食べられるものはこの世から消滅します。
すなわち、死です。
人は食べなければ、たやすく死ぬことができます。
それゆえに、命は大切。だけど、自分の命も大切。
そういう矛盾が生じます。
人間が動物である限り、失われない非常に大きな矛盾です。
だから、一旦植物に対してだけは判断停止しようと考えることになります。
植物が命ではないと考えられなければ死ぬことになります。
人は理想に近づくほど死に近づく
すなわち、命はすべて大切という理想とのギリギリの妥協点が植物食なのです。
もしも、植物を生命と認めてしまえば、菜食主義者は無食主義者となり、やがて餓死することになります。
多分ですが突き詰めすぎて、そのように死んだ人も割といると思います。
文字通り理想に準じるわけです。
例えば、日本の即身仏などはこういった理想の体現者なのかもしれません。
個人的には思うところがありますが、人間として尊敬できる方々だと思います。
理想に近づいていたい
すなわち、菜食主義者はすべての命は大切だけど、自分の命も大切。
一体どうすればいいのか。
悩んだ結果、仕方がないから、一番無機物に近い植物を食べて、生き永らえようと考えているのではないかと推察します。
できなければ、死ぬだけです。
なので、菜食主義者はいても無食主義者は存在しません。
1週間から1ヶ月ぐらいで発言できなくなりますからね。
まとめ
植物は人間から非常に離れています。
そして、植物は動きが非常に少ないです。
それゆえに、植物はほぼ無機物として扱われがちです。
植物には生命の要素が他の生命体よりも薄いのです。
すなわち、植物が限りなく動物でないことによって、生命すべてを大切にしたい。
殺生したくない。
でも、死にたくはない。
そういう方がギリギリの妥協点として植物を食べることになります。
こういった意味でお坊さんは精進料理を食べることになります。
しかし、それでも生命は大切であるということを突き詰めてしまうと、餓死することになります。
日本の即身仏などがそうです。
それは理想の体現者ですが、生命の態度ではありません。
なぜなら、私達は人間である前に動物だからです。
人は理想に殉じると死にます。
だから、生きるためには理想と折り合いを付ける必要があります。
植物食以外にもそうです。
生きるために様々な妥協を人はしています。
その妥協にあれやこれやとケチを付けるのはどうなのだろうかと思います。
読了ありがとうございました。