うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

正義に狂うもの

 

 

はじめに

 

正義の名のもとに振るわれる暴力に心奪われないことを望む、ほうじょうです。

 

今回は

 

正義感という気持ちのいい怒りについての話をします。

昨今の「悪人相手ならば何をやってもいい」

そういう風潮に逆らってみたいなあと思って書いた記事です。

 

衝動的な怒り

 

実は私非常に怒りっぽいんです。

Twitterなどで流れてきた社会問題などに瞬間的に頭が沸騰してしまい、

思考停止状態に陥ってしまうことがあるんです。

 

そのとき、私は正義感が強いなあとあきらめに近い感情で

いったんtwitter閉じます。

閉じますが、またtwitterを開いて、発言をしてしまいます。

 

ちなみに後でそのツイートが自分のタイムラインに流れてくるんですが、めっちゃくちゃ気持ち悪いんですよね、その文章。

これ消したほうがいいのでは?と思うことも多々あります。

 

それで思うんです。

「これは悪人に対してならば何をやってもいいという意識の表れなのでは?」

と。

 

私にも悪人に対してならば、何をやってもいいという考えが忍び込んでいるのでは

と私は思い立ちました。

 

悪人相手ならば、何をやってもいい?

良いわけがないだろう?

 

そういうわけで今回の文章は生れ落ちてしまいました。

 

衝動への対処

 

しかし、そう考えてすでに10年以上たっています。

私が物心ついたころには

「自分は怒りっぽいなあ。 もっと穏やかになれないかなあ」

と考えていました。

 

にもかかわらず有効な答えはまだ出ていません。

 

せいぜい

  • いやなものを見ないように努力する。
  • いやなものを見ても、呼吸を整えて、対応する。
  • いやなものに対していいところを見つける。

 

などの対処療法的なものしか見つかっていません。

 

私にとって怒りはコントロールが特に難しいものです。

難しいから考える必要があります。

 

怒るのは気持ちがいい

これです。

これが問題です。

怒ると気持ちがいいんです。

その瞬間だけは。

 

例えば、私は理不尽かもしれませんが、

道のど真ん中を歩きながらスマホをいじっている人に怒りを感じます。

めっちゃくちゃよけにくいからです。

 

ついでにありとあらゆる犯罪にたいして怒りを感じます。

特に「学校」関連。

学校関連については今までに積もり積もった恨みつらみが

6年以上経過した今でもなお残り続けているからです。

 

そして、定期的に「子どもの人権条約」やら「高卒認定試験」のことやら拡散しようとしてしまいます。

 

そうすると、恥ずかしながら非常に大きな快楽が生じるんです。

 

非常に恥ずかしいことなんですが、

怒りは解消されたとき気持ちがいいんです。

発散したとき気持ちがいいんです。

 

私はその気持ちよさが気に入らない。

自分が気持ちよくなっても、ほかの誰かを不快にさせてしまっている。

実際、5分後の私が被害を受けています。

ということは見ず知らずの他人相手ならば、

もっと不快にさせてしまっていることでしょう。

 

そんなん許していいの?と自分に問いかければ、

当然そんなん許しちゃいかんよね?と帰ってきます。

 

たとえ、自転車に乗りながらスマホを見て片手にジュースを持ちながら他人をひき殺した女子大学生の話を聞いても、

私はそれに対して怒りを述べてはいけないように思います。

 

怒りに抗うが……

 

共感してもらえるものだとは思いません。

当然、私すらも共感していません。

 

文章書くだけで怒りが湧き上がってきます。

 

実際、そのような話を聞くと、

体の内側から血が上り詰めるような感覚が生じます。

そして、命令されます。

 

「今こそ、怒るべき時だろう?」と。

 

そういう時

私は一瞬その女子大生がなぜそのような大道芸をする必要があったのかを考えます。

 

理由はわかりませんでした。

 

せいぜい

 

  • 自転車に乗りながら、携帯を操作すると危ないことを知らない
  • ハンドルを握らずに自転車を走らせるとふらふらすることを知らない
  • 前を見ずに自転車を走らせるとなにかにぶつかりやすいことを知らない

 

ぐらいしか考えつきませんでした。

 

そこまで考えると、

何か人間の個体差大きすぎるなーというあきらめに似た感情が生じました。

 

怒りももちろん生じます。

昔出会い頭にスマホを見ながら、自転車を走らせている若者にぶつかりかけたことを思い出しました。

 

それでもそういう現象が起きていることはいろいろな理由があって、

割と同しようもないことなんだなと思います。

 

正義に狂う

 

以上の例のように怒りをコントロールしようとしても、

自分の身が危険にさらされたことを思い出し、

どうしても怒りをコントロールできない、

ということがありました。

 

さらに、たちの悪いことに私は怒りを道徳的に肯定する術を持ってしまっています。

 

それは正義です。

 

私は怒りを理論づけて、正義感に変換します。

 

正義感とは法律やマナーといった秩序に反する何かを排除しようという感情です。

 

そして、正義感は自分が正しいという肯定感を与えてくれます。

与えてしまいます。

そうすれば、あとは行動に移るのみ。

 

こうして実際の暴力は生じます。

私の衝動的なツイートが生じます。

 

だからと言って、そんなことを肯定していいのかという問題は残り続けます。

 

自分は正しい。

だから暴力をふるってもいい。

 

怒りを解消すると気持ちがいい。

だから暴力をふるってもいい。

 

私は自然にそのように考えてしまいます。

そしてそう考えることをやめるように努力します。

 

そんなん人間か?

人間じゃないだろう?

 

人間というのは感情に反することができるヒトのことを言います。

 

ヒトというのは考えることができるだけの肉塊です。

しかし、ヒトには考えることで自然の流れに逆らう能力が備わっています。

だからこそ、ヒトは人間たることができるのです。

 

私はヒトであるよりも、理想的な人間であることを欲します。

だからこそ、怒りを避けるのです。

 

寛容に狂うことを選択する

 

私は「私の」正義感が強いことを肯定しません。

なぜなら、正義感は秩序によって肯定された怒りだからです。

 

それは常に暴力としてあります。

わかってはいるんですが、コントロールできません。

 

いやなものだから排除する。

排除すると気持ちがいい。

 

常にそんな感情に従ったら、むやみに追い詰められる人が多く出ます。

 

まずは自分の怒りの感情をコントロールします。

いやなものを排除するのではなく、

その原因を発見し、解消する。

 

怒りの方向性を憐れみに切り替えます。

生じてしまった感情のエネルギーを0にすることはできません。

 

だから、私は怒りを力ずくで憐れみに変換します。

 

私の生涯の命題として

「怒りのコントロール

「いやなものを受け入れること」

をずっと忘れないようにしたいと思います。

 

どうしても怒りを抑えなければならないとき、

正義感に狂うのが嫌になったとき、

私の考えが役立つようになりたいです。

 

仮に他人が正義感を制御するつもりがないとしても、

私だけは正義感を制御します。

そうやって生きてきたからです。

 

私は寛容することにこだわり、そして狂っています。

 

まとめ

 

正義感について、怒りについて、

15年以上考え続けてきたのですが、答えは出ません

 

立場が弱い人を排除するのはよくないという意識と

そういうの自分に利益ないから考えなくても良いよねという感覚と

それらが常に対立しています。

 

そして、私の場合、自分に利益ないし別に排除してもいいよね

という方向に進むことが非常に多いです。

 

そんな状況を許すことができません。

そんな原始的な怒り程度に自分は突き動かされていいものか、

人間たることを諦めても良いのかと

常に悩んでいます。

 

だから、私は怒りを憐れみに変換するようにしています。

哀れみを被害者だけでなく、加害者にも向けるようにするのです。

 

完全に傲慢ですが、私の体自体が怒りっぽいので仕方がありません。

私は私の在り方を肯定します。

世間にも自分の体にも流されたくないと思います。

 

だからこそ、正義感について考えることはやめられません。

 

私があえて哲学科に進んだのはこの正義感をコントロールするためです。

いやなものを受け入れるためです。

 

いつか答えを見つけたいと思います。

答えが見つかりましたら、みなさんにお知らせしたいと思います。

ここまで私事ですが、読了ありがとうございました。