うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

フランスの暴動を見て 人は平和のために何人犠牲にできるか

 

平和がどれほど重いのか測ってみる、ほうじょうです。

 

フランスのほうで現在暴動が発生しているようですね。

ほぼ内紛一歩手前の市民暴動です。

 

仏 抗議デモ 野党「即刻 増税やめよ」事態打開の糸口見えず | NHKニュース

 

このニュースを見て思ったのは平和というのが人にとってどれだけの価値を持つのかということです。

 

数々のものが壊され、人命も失われ、名誉まで失われ、それでもなお暴動をするに至った経緯が知りたいのです。

 

平和がどれほどの価値を持っていて、平和がどのようなものなのか、この機会に考えてみたいと思います。

 

 

 

4種類の平和

 

まずは平和の概念を整理します。

平和という概念は曲者で、大まかに分けても4種類のレベルがあります。

 

個人における平和と社会における平和という社会のレベルでの平和と

環境における平和と心における平和という物理のレベルでの平和に分けられます。

 

これらの平和を掛け合わせることで

 

個人の心の平和

個人の環境の平和

社会の心の平和

社会の環境の平和

 

に分けることができます。

 

社会の心の平和というと妙な気持ちになるかもしれませんが、

社会にたまったうっぷん、ハロウィンの暴動や冒頭のフランスの暴動を思い出していただければ、何となく理解していただけると思います。

 

これらの平和の次元の違いが平和を語る上での障害となっています。

これらを混同すると平和に対する議論が全く進みません。

気を付けていきましょう。

 

フランスの暴動とハロウィンの暴動への所感

 

フランスの暴動は市民の自然発生的な暴動です。

そこには自分を締め付ける秩序に対する不満が感じ取れます。

 

そして、そこには平和という概念がないと思われるでしょうが、

実は違います。

 

個人の心のレベルにおける平和がこの暴動で達成されているのです。

わかりやすく言うならば、うっぷん晴らしですね。

 

心によどみがたまるとその他の平和を無視するようになります。

そして、それらのうっぷん晴らしに便乗する人が数々現れ始め、

本格的な暴動に移り変わっていきます。

 

個人的にまたフランス革命のようなことを繰り返すのではないかと戦々恐々としています。

どうかこれ以上大事にならないように祈るばかりです。

祈る以外の手段があるならば、可能な限り早急に対処したいものです。

 

心の平和は環境の平和よりも重い

 

心の平和は自分の周囲が平和であることよりもずっと重要です。

安心できるということ自体が環境の平和よりもより根源的なのです。

 

それゆえに、暴動は起こります。

これは平和のバランスが崩れた時に起きる現象のように思えます。

 

財産がなくても、幸せに生きることができる人がいるのは、最も根源的な

心の平和が達成できているからです。

 

逆に言えば、心の平和が達成できなければ、どれだけ環境が整っていても、

暴動のようなものが起きます。

 

今回のフランスの暴動は現政権への不満が主原因と見られているようです。

それ以外にも格差の問題など、数え切れないほどに要因はあるでしょう。

 

人は自分の心の平和のためならば他人を何人でも犠牲にできる

 

以上の話とフランスの暴動を交えて、思ったのは人は自分のためならば他人を何人でも犠牲にできるということです。

 

心の平和が保たれていなければ、非常に危険です。

そして、そのような不満は共鳴します。

きっかけがあれば、社会的なものにまで発展します。

 

もしも彼ら同士の関係性が少なくても、共通の敵さえあれば、自分の個人的なうっぷん晴らしを社会的な大義名分にすり替えることができるのです。

 

そして、この段階に至れば、邪魔するものはすべて敵のレッテルが張られます。

そうなれば、人が死にます。物が壊されます。名誉も失われます。

 

そして、残るのは高揚感です。

その間だけは心の平穏が保たれてしまうのです。

 

対抗する極端な倫理-生命神聖論

 

これらの生来的な心の平和を重視する視点に対して、反抗するのが倫理です。

倫理は自然の性向に反してでも人命や財産を守るように努めます。

 

人命軽視の対極にある論理が「生命神聖論」です。

この生命神聖論はものすごく極端なもので、

言ってしまえば、地球よりも一人の人命が重いと言えてしまうほど極端な論理なのです。

(そこまでは言っていない人も多いのですが、理論上言えてしまうという話です。)

 

ですが、この生命神聖論は程度の差こそあれ、だいたい信じられています。

命は大切だと普段から人は言うでしょう。

 

それは生命神聖論の最初のレベルです。

とにかく命は大切だと言っているならば、生命神聖論に含まれます。

 

そして、この生命神聖論が信じられている間は人が死ぬことはありません。

むやみに田畑が荒らされ、動物がむやみに殺されるということもありません。

 

ですが、何事にも限度があり、心の平和が乱されれば、たやすく捨て去られます。

だからこそ、この論理は極端なのです。

極端な論理でなければ、極端な状況に対応できないからです。

 

極端な倫理でバランスをとっている

 

これらの極端な倫理によって、かつての人々は暴動のような社会の秩序・平和を

保とうとしてきました。

それはある程度は成功し、ある程度は失敗しました。

 

倫理事態極端なもので現実的に不可能なことが多々あるからです。

 

それでも倫理がなければ、人の命というのは非常に軽いものです。

それに待ったをかけられるのは結局極端な倫理しかないのです。

 

たとえ、そこに不備があろうとそれを利用する以外に社会の環境の平和を

保つことは難しい。

だから、倫理でバランスをとる必要があります。

 

今回のフランスの暴動は倫理で妨げることはできなかっただろうと

ニュースを見て思います。

 

やはり心の平和が環境の平和よりも重要であることには変わりはないようです。

 

まとめ

 

今回はフランスの黄巾の乱について所感を述べながら、平和を4種類に大別しました。

そして、その平和のバランスは偏っていて、個人の心の平和が結果的に最も重視され、

それが蓄積することで社会の心の平和が脅かされることになります。

 

社会の心の平和が脅かされれば、社会の環境の平和が乱れることになります。

 

この段階に至るまで2段階を経ています。

その間に打てる策はあったのか、現在の暴動に至る前にガス抜きはできなかったのか、

考えてしまいます。

 

どちらにせよ、倫理で自分を縛ったり、衣食住が保証されたり、

様々な手段を駆使しなければ、私たちの社会の平和を保つことは難しいようです。

 

ここまで読んでいただいた方には感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。

他人を責めたい時こそ倫理の鎖が重要だと一言だけ添えておきます。