うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

マナー講師問題 ダジャレで作られたマナーをマナーと呼べるのか?

 

マナーに厳しい側のほうじょうです。

 

昨今、インターネットでマナー講師の蛮行に怒りを露にする流れができております。

私自身も昨今のマナー講師の愚行には目に余るものを感じております。

 

ダジャレで新しいマナーを作り出そうとするその姿勢はまさに「失礼製造師」、

マナー講師とは名ばかりの人と人との関係を衝突させようとする扇動者だと感じます。

 

ダジャレなどでマナーを作り出されてしまえば、無用な衝突を作り出してしまいます。

本来のマナーは人と人との衝突を避けるためのもののはずです。

 

つまり、マナー講師のマナー創造術はマナーとは異なるものだと結論付けられます。

 

今回の記事で皆様がマナーについて考え直す良い機会になってくれれば幸いです。

 

 

 

 

不合理なマナー

 

Twitter上であるツイートが話題になりました。

 

とっくりは注ぎ口から逆に注ぐのがマナーという文言に対して、

陶芸家が逆に注ぐことなど不可能なとっくりを作り出したのです。

 

彼(彼女)はとっくりの注ぎ口は本来使い手のために作られたもので、

マナー講師によって不合理な使い方をされて怒っているというものでした。

 

とっくりの注ぎ口以外から注げば、当然お酒はこぼれやすくなります。

ということはお酒を無駄にする可能性が高まり、不合理です。

 

そのような不合理を本当にマナーと呼んでいいのでしょうか?

今回の記事ではそれを問い直していきたいと思います。

 

最低限のマナーとは何か

 

さて、とっくりを逆に注ぐことはむしろ不合理であることが妥当していると

皆さん共感していただけると思います。

(実はいうほど不合理じゃないよと考えられている方はコメント欄に示されてください。

 すぐに対応いたします。)

 

とっくりの注ぎ口を利用して、おさげを楽にそしてミスなく注ぐことができることは

合理的です。

 

そして、ミスなく注ぐことができれば、無用な衝突は生じないはずです。

とっくりを逆に注いでこぼすよりもとっくりの注ぎ口を使って、こぼさないほうがずっと

不快感が少ないはずです。

 

つまり、ここで合理的なマナーというのは人に不快感を与えないこと・衝突しないようにすることであると言うことが妥当します。

 

実際、私自身電車内で重要だと思うことは自分が不快じゃないか、そして周りの人が不快じゃないかということ、そして、苦言を呈さざるを得ない状況に陥らないことです。

 

要するに①衝突の原因を作らない②実際に衝突しない、これらが合理的なマナーの条件に妥当するということです。

 

無難なマナー

 

しかし、すでに定着してしまったダジャレ由来のマナーは

守らなければ不快感を感じる方がいらっしゃいます。

 

例えば、病院に根のある植物をもっていかないというマナーは大体の人が知っているでしょう。

 

それゆえに、病院に根のある植物を持ってこられれば、マナー違反として不快感を感じる人もいるかもしれません。

 

たとえ、それが完全に善意によるものであったとしても、病人が好きな花でも

もっていくのにためらいが生じます。

 

こういう既成事実には従わざるを得ません。

結局無用な衝突を生み出す可能性があるためです。

 

そして、このような無用な衝突を生み出す可能性のあるマナーが既成事実となることに私は反対します。

 

マナーとはそういうものではないと主張します。

マナーを作って、新しい不快感を作るのは本末転倒なのではないかと、考えます。

 

皆様はどうお考えでしょうか?

 

誰相手のマナーなのか

 

さらに、問題としてマナー講師の言うことは誰相手のマナーなのかが明確にされていないことが挙げられます。

 

つまり、誰相手でもやらなければらない、いわばルールのようなものを作り出そうとマナー講師は試みているように思われます。

 

すなわち、不遜にも彼女たちは社会にスタンダードを生み出そうという試みをしているのではないかと感じます。

 

つまり、不文律を追加する試みです。

 

マナーは本来人の性格や立場、状況によって変わるものです。

相手に合わせ、状況に合わせることで衝突しないようにする。

それを画一的に明文化してしまうのはマナーの柔軟性を失わせる結果になるでしょう。

 

それでは、なぜマナーが不文律であるのかわからなくなってしまいます。

不文律が不文律であるのは、その柔軟性が重要だからです。

決して明確化によって不満を生み出すためのものではありません。

 

マナーとはそもそも何か

 

それでは、ここで改めてマナーとはそもそも何かという問いかけをしてみたいと思います。

 

私にとってのマナーは生活を円滑にし、人と人との衝突を減らすためのものです。

そして、それは多くの人に同意を得られると思います。

衝突を増やすマナーなどマナーではありません。

 

すなわち、マナー講師の説くマナーはマナーと呼ばれているが、本来のマナーとはかけ離れているということです。

 

無用な衝突を生み出し、混乱を生み出すマナーに対して私は合理性をもとにノーを唱える必要があるでしょう。

 

このことについての是非はいつでもお受けいたします

 

マナーを考え直す

 

このマナー講師問題はマナーとは本来何か、各自考え直すいい機会に思います。

この機会に自分のふるまいを省みるといいかもしれませんね。

 

自分のしていることが本当に相手のためになっているか、

周囲の人に聞いてみるといいかもしれません。

自分がマナーだと考えていたことでも実はマナーじゃなかったり、

逆に自分の知らなかったマナーが見つかったり……。

 

マナーは人と人との関係の中に生まれます。

やはりコミュニケーションは重要だと改めて考えさせられますね。

 

まとめ

 

今回の記事をまとめます。

 

マナー講師問題はマナーの性質を悪用したところから生じています。

本来のマナーは人と人との関係を円滑にするための合理的なものであるはずなのに、

マナー講師はむしろその邪魔をします。

 

そして、ダジャレで作られた不合理なマナーは余分な不快感を生み出してしまします。

それでは本末転倒、マナーの理念に反します。

マナーの理念は生活で人と人が衝突しないためのものです。

 

例えば、道を譲りあうとか電車の中では静かにするとか、そういった物理的・心理的問わずに衝突をしないためのものです。

 

無用な衝突を生み出すマナーはむしろマナーとは言えないとあえて断言します。

よって、マナー講師は実はマナーを教えていないのです。

彼女たちは本来の合理的なマナーを知らないのですから。

 

今回の記事で皆様が合理的なマナーとは何かを考え直す機会になれば幸いです。

ここまで読んでいただいた方には格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

 

ちなみに私は不合理なマナーも普通に守れるので、バシバシたたきつけていただいても

かまいません。

すべて聞き届けます。