うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

幸福について考えずにすむことこそ幸福である

 

 

はじめに

 

形ないものに気づかずにすむという幸運があることに気付いた、ほうじょうです。

 

今回は

昨日の記事をより整理した形にしたいと思います。

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

これですね。

 

ここで最終的な結論として

「薬物に走らないような社会整備をする」

という変則的な結論を出しました。

 

これをもっとわかりやすいように

「幸福は失って初めて気づく」という命題から始めたいと思います。

 

結論として、

「努力と呼ばれる苦痛がなければ、成功と呼ばれる幸福感が

 得られてはならない」

そんな気持ちが私やそのほかの人の中にあるということを導きました。

 

「幸福は失って初めて気づく」

 

皆さんは「幸福は失って初めて気づく」という言葉をご存知でしょうか?

アニメやゲーム、ドラマ、もしかすると生活の中などいろいろところで言われていますので、

ご存知の方も多いかと思います。

 

今回は「幸福は失って初めて気づく」ということを変形してみたいと思います。

そして、幸福とは何かについて迫っていきます。

 

例えば、「幸福は失って初めて気づく」ということは

「失われなければ幸福の存在は気づかれない」ということになるでしょう。

 

そして、さらに推し進めると

「幸福の存在に気づかないことこそ幸福な状態である」

という逆説的な結論が導かれます。

 

そして、この逆説的な結論から

「幸福である状態は自覚されないという前提がある」ということが導かれます。



幸福について考えないといけないときはたいてい苦境

 

それでは、今度は幸福について考えなければならない状況を考えてみましょう。

 

例えば、家族との別離、ペットロス、無い内定

あえて幸福について考えなければならないときは

苦境に立たされたとき、喪失感がある時ではないでしょうか?

 

苦境によって幸福がかつて自分に備わっていたことが自覚されます。

 

ということは幸福というのは何らかの対象に依存することを

意味するのではないかと思います。

 

あって当たり前と信じているものの喪失によって、

自分がかつて幸福だったことが見いだされます。

 

逆に言えば、あって当たり前と感じるものに囲まれていることこそ、

幸福な状態といえるでしょう。

その状態は決して自覚されません。

自覚しなければならないような状況に追い込まれている時点で

それは苦境の一種です。

 

例えば、家族がいて幸福だと感じるときは

心地の良い疲労感がある時ではないでしょうか?

家族とショッピングモールに行き、

くたくたになるまで遊び尽くすとしましょう。

 

その帰りに子供の寝顔を見て、ああ自分は幸せなんだなと感じるとしましょう。

 

月並みですが、ここでも疲労感が幸福感のキーになっていると思います。

 

不幸がなければ幸福は自覚されない

 

ここで逆説を一つ提示します。

 

幸福があるのが先ではなく、不幸があるのが先であるということです。

すなわち、不幸こそが本来的であり、不幸から間接的に把握されるのが幸福である。

そんな逆説です。

 

ちなみにここでいう不幸はありとあらゆる種類の苦痛、心地のよいストレスも含めて、

非常に広い意味で使っています。

 

先に幸福があって、それが失われるからこそ不幸になるのではなく、

不幸な状態から本来あるべき状態、すなわち幸福を想像するから

幸福は存在するのではないでしょうか?

 

あえて幸福について考えるのは不幸なときです。

苦痛を感じている時です。

疲れている時です。

 

実はそのような種類の不幸のほうが幸福よりも先にあるのではないでしょうか?

 

幸福感は何らかの苦痛からの解放を意味する

 

ここで幸福な状態ではなく、ほっとした感覚などの幸福感についての

話をしたいと思います。

 

幸福感は様々な気持ちの良い感情を総合的に含んだあいまいな感情です。

 

例えば、

寒いときに温かい飲み物を飲んだ時、

暑いときに冷たい飲み物を飲んだ時、

空腹のときにおいしいものを食べた時、

立ち向かいようのない現実をお酒で忘れている時などなど。

 

よくよく考えてみると、

幸福感には苦痛からの解放という面がほぼ必ず含まれているのではないでしょうか?

 

山を登り終えた時の達成感も

途中で受けた歩行や息切れといった苦痛が成功という形で実りを得た時に生じます。

 

つまり、幸福感とは苦痛からの解放ではないでしょうか?

ここでも「不幸のほうが幸福に先んじている」という話が出てきました。

 

この仮定がどの程度正しいのか、私にはわかりません。

ただ、幸福感と言って、想定される状況のほとんどに

苦痛が前提されていたことから単に総合して得られた結果です。

 

もしかすると、反例があるかもしれません。

しかし、その反例は簡単には思いつきません。

簡単には思いつかないということは

苦痛なしの幸福はむしろ特殊な事例なのかもしれません。

 

実は苦痛なしの幸福こそが忌避されている

 

それでは苦痛なしの幸福の例を考えてみましょう。

 

昨日、私は薬物や快楽殺人などを例に挙げました。

特に薬物の摂取は苦痛よりも先に幸福感が生じます。

そして、そのあとに離脱症状で苦痛を感じます。

 

一般的に考えられている幸福は苦痛→幸福感の順序で生じます。

しかし、薬物や快楽殺人などはむしろ幸福感→苦痛の順序になります。

 

激しい離脱症状、良心の呵責、警察にばれたらという焦燥感。

 

それら社会的に忌避される幸福感は順序が一般的な幸福と比べて

狂っています。

 

もしかすると、苦痛なしの幸福こそが社会的に忌避されるのではないでしょうか?

努力なしで得た力には振り回されるのと同じようにです。

なんとなく最もらしく思います。

 

よく生きるとは苦痛を享受したうえで成功すること

 

それでは、一般的に考えられている幸福に戻りたいと思います。

 

幸福には必ず前段階として何らかの苦痛が伴います。

その苦痛は基本的に努力と呼ばれるものです

そして、努力と呼ばれる限り、その苦痛は肯定的な価値を持ちます。

 

たまに努力という言葉が嫌いな方もいらっしゃいます。

きっと努力が苦痛そのものであるということを

なんとなく理解していらっしゃるのかなと愚考します。

苦痛は努力と呼ばれていても、苦痛に変わりありませんからね。

 

その努力と呼ばれる苦痛が幸福感に転じなかったとき、

努力と呼ばれる苦痛は単なる苦痛のままに終わります。

 

多分、努力と呼ばれる苦痛が幸福感に転じることこそを成功と呼ぶのでしょう。

そして、その成功こそ私たちが普段考える幸福なのでしょう。

 

一応の結論は出ました。

 

幸福感は本質的に苦痛が伴う必要があるという結論です。

そして、「幸福は幸福感すらも伴わない状態をいう」という結論です。

 

まとめ

 

今回は「幸福は失って初めて気づく」という割と普遍的な言葉から

「不幸のほうが先にあって、不幸から解放されることによって幸福が得られる」

という自分なりの結論を手に入れました。

 

ついでに努力と成功という一般的に考えられる幸福の定式を考えてみました。

努力は苦痛であり、努力からの開放感が成功という幸福感につながるのでしょう。

 

そして、その範疇から外れる薬物による幸福感が

幸福感→苦痛という一般的な幸福感とは逆の順序であるということを見出しました。

 

もしかすると、私たちは肉体のレベルで苦痛がなければ幸福感はありえないということを

自覚しているのかもしれません。

これも単なる憶測です。

誰も言っていないので、私自身が手前勝手に言っていることです。

 

もっとブラッシュアップをする必要があるでしょう。

 

それにしても、昨日の混乱した記事からよくぞここまでまとまったものだと思います。

どれだけ混乱していたとしても書いてみるものです。

 

ここまで読んでいただいた方には格別の感謝を申し上げたいと思います。

ご読了ありがとうございました。

 

皆様にはあえて幸福を考える必要がない幸福な状態を望みます。