うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

刹那的な多幸感 恒常的な幸福 選び取る必要のある2種類の幸福

 

はじめに

 

形としてあるものと形としてはないものの同居について考える、ほうじょうです。

 

今回は

幸福って何?

幸せって何?

という哲学における倫理の分野で常に問題になることを考えてみたいと思います。

 

いろいろ問題のある

「私は幸福だから他人はどうなっても構わない。

 もちろん、自分自身もどうなっても構わない。」

そういった実は反論し難い発言に反論してみたいと思います。

 

多様な幸福のあり方

 

幸福と聞いて、みなさんは何を思い浮かべますか?

 

家に帰って、ほっと一息をつく瞬間。

朝のコーヒーブレイク。

好きなゲームを夢中でやっている時。

 

薬物を乱用し、幻覚を見ている時。

動物が死にゆくさまを見ている時。

 

凄まじく多様な幸福の形があると思います。

 

後者ではあえて極端な例を出しました。

私自身は全く薬物などの幸福を求めていませんが、

それでもそこに追い詰められる人がいるのは確かです。

 

だから、考慮に値します。

現実問題として、刹那的な幸福感を得なければ、生きていけない人がいるからです。

 

それでは、幸福には区分があるというお話をします。

 

これらの幸福には大まかに分けて、2種類の方向性があります。

 

幸福感と幸福であること

 

まず1つ目は幸福感、英語ではhappinessと呼ばれます。

この幸福感は心理的な状態を表していて、

他人から見た姿は一切考慮されません。

 

実際に、何らかの快感、

例えば、開放感・酩酊状態・浮遊感などなど、様々な快感が生じているとき、

幸福感を感じているというように言います。

 

幸福感を得るための手段に何ら制限はありません。

たとえ、薬物を使おうが、口にするのもおぞましい行為をしようが、

幸福感を感じている場合、happinessの状態にあると言えます。

 

これが冒頭の「自分が幸福感を感じてさえいれば、かまわない」

という話に繋がります。

 

それに対して、幸福に見えること、英語ではwell beingといいます。

 

この種類の幸福に至るためには著しく手段が制限されています。

「幸せそうに見えること」

それがこの種類の幸福です。

 

たとえ、「幸せそうに見えても実際に幸福感を感じているとは限らない」

これがポイントです。

 

例えば、1流の大企業に勤める男性を例に挙げます。

彼は順調に昇進ルートを進み続け、私生活も順風満帆

「のように見えます」。

 

しかし、実際には彼はその生活に飽き飽きしていて、

誰もが羨むような生活であったとしても、一切幸福感を感じていないかもしれません。

 

彼はありとあらゆる面から見て、完璧に見えますが、

幸福感が欠如しています。

 

しかし、彼は幸福です。

なぜなら、幸福の規範から外れていないから、

他人から見ると幸福にしか見えないからです。

 

こうした「他人から見て幸福であること」・「見苦しくないこと」

それがよく生きることです。

 

それゆえに、

倫理の分野では幸福をあえて「happiness」と「well being」に区別します。

 

もちろん、「happiness」と「well being」、

どちらも達成している場合はありえます。

 

それでも、両者は常に同じ人に備わるわけではありません。

だから、区別されます。

区別する必要があります。

 

薬物・快楽殺人鬼

 

倫理で幸福の話題が出る時、必ずと行っていいほど、

薬物や快楽殺人鬼の例がでます。

 

これら反社会的な意味での幸福感に対して、

「それは幸福ではない!」と

抗弁する手段を実は私は持ちません。

 

単に「反社会的である」・「他に苦しむ人がいる」・「見苦しい」。

そういった理由によって、それらの問題のある幸福感を否定します。

それでも、それが幸福感であることを否定することまではできないのです。

 

 

いろいろな薬物による幸福感、刹那的な幸福感の否定の方法はありますが、

何よりも成功しているのは単に幸福を2種類に区別して、

「見苦しくないか」を基準にすることです。

 

しかし、それでも「幸福感」が生じているのは否定できません。

 

それが「良い生き方」ではないと言い切ることができますが、

「幸福ではない」と言い切ることはできません。

 

厄介な問題です。

 

「私は幸福だからほかはどうなっても構わない」

 

さて、本題に入ります。

「私は幸福だから他人を犠牲にしても構わない。

 もちろん、自分すらも犠牲にしていい。」

 

そういった刹那的な幸福のあり方に対して

どうやって反論を加えることができるでしょうか?

 

まずは先程行った幸福の2種類の区別。

「well being」を持ち出してみましょう。

 

少なくとも、刹那的な幸福、後先考えない幸福感に対して

「well being」の意味での幸福は与えられません。

 

それでは、これで刹那的な幸福を否定できるでしょうか?

 

まだ、できません。

 

「自分が幸福感を感じていればいい。幸福である必要はない。」

 

そう言われれば、何も言えなくなります。

 

幸福である手段と幸福を得る手段

 

幸福であり続けることは非常に難しいです。

人には様々な困難が訪れます。

それを常に乗り越えることを約束することは誰にもできないでしょう。

 

そして、刹那的な快楽、幸福感にふけることもありえます。

 

刹那的な幸福感もまた幸福の一種であり、

原理的に幸福ではないと言い切ることはできません。

 

それでも、刹那的な幸福感に反論するならば、

社会制度などの外部の要因を持ち出す必要があります。

 

刹那的な幸福感に追い詰められるような状況を可能な限り生み出さない。

そもそも、そのように主張する人を生み出さないようにすること。

それ以外の選択肢はありません。

 

刹那的な幸福感に向かわせるような厳しい状況をなくす。

そして、「自分だけが幸福ならばいいじゃないか」

そう言わなければならないほどに追い詰められる状況を生み出さないようにする。

 

私には問題を初めから生じさせないという方法しか思いつきませんでした。

 

結局私では原理によって刹那的な幸福感を幸福ではないと

否定することはできませんでした。

 

だったら、別のところから原理を借りてくれば良いのです。

それが今回は社会のセーフティーの強化でした。

 

刹那的な幸福感に追い詰められる前に、

良い生き方を教えてくれて、そのように生きることを助ける

場所を作るしかないと結論が出ました。

 

まとめ

 

刹那的な幸福感を幸福ではないと否定し切ることはできません。

きっと薬物がなくなることは人に苦難が訪れる限りなくならないでしょう。

 

それでも、なんとかして「普通の幸福」をそれぞれの人が手に入れられるように

願います。

ただ、願うことしかできません。

 

今回の記事は幸福についてまとめようとしましたが、

全くまとまりませんでした。

自分では未だに力不足のようです。

 

もう一度、後日再挑戦したいと思います。

 

混乱した文章でしたが、それでも読んでいただいた方に格別の感謝を。

 

ご読了ありがとうございました。