うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

哲学者は引きこもりか? 哲学科卒業生の失敗から考える

 

はじめに

 

自分に囚われすぎないようにしたい、ほうじょうです。

 

今回は

 

哲学者は一人で哲学をできるかについて考えます。

結論から申し上げると、一人で哲学はできません

哲学をやる上で他人との関係は避けられないという話をします。

 

「ドーナツの穴を残しながらドーナツを完食する」ための正攻法

 

昨日、私は「ドーナツの穴を残しながらドーナツを完食する方法」を考えました。

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

しかし、結論はなんだか突飛なものになってしまい、

うまく答えられたようには感じられませんでした。

 

そこに記事に対して感想を述べてくれた方がいらっしゃいました。

 

その方によると

 

ドーナツを丸呑みにすれば条件が満たせるのでは?

 

そういった話でした。

 

私は確かにそれをすれば、

十分に条件を満たしながらドーナツを完食できると感じました。

実際、そのとおりです。

 

一応、お腹の中で消化される過程を含まえるかの問題は残りますが、

些末なことです。

実際に、ドーナツの穴を残しながら完食できているわけですから。

 

少なくとも一人では思いつきませんでした。

 

一人で難題を考えても……

ここであえて言い訳をします。

必要だからです。

 

まず、私は昨日の記事を書く時、喉と舌が痛くて、

それを無意識のうちに気にしていました。

 

それで今の自分ならばドーナツをどう食べるかという条件を

自ら付け加えていました。

そんなのは問題文に書かれていません。

 

結果、私はドーナツを無意識のうちに

手のひらサイズかつ齧る必要があるものと感じていました。

 

もしももう一度私の昨日の記事を読んでいただければ、

そのような思い込みがあることがわかると思います。

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

私は自分の考えに固執し、無意識のうちに自由な発想を制限していたのです。

それをとても簡単にその方は解きほぐしてくれました。

 

そこで改めて私は哲学をするならば、他人と話をする必要があると気づきました。

 

対話

 

対話は古代ギリシャ時代より最も重要視されてきた哲学の方法です。

 

なぜ対話が必要なのかを申し上げると、

対話をしないと自分が間違っていること、

定義を曖昧にしていること、

それに気づくことができないためです。

 

そして、間違いを認め、次に進む。

それが哲学の正攻法です。

 

対話なく哲学を勉強しても身になりにくいものです。

昨日の私のようにどうしても必要のない縛りを設けてしまう可能性があるからです。

 

それを修正するためには他人と会話する事が重要です。

 

哲学は古典を読むことも重要ですが、

最も進むべき王道として他人との対話が必要です。

 

哲学には本来的にただ一人で完結するところのない要素が含まれています。

もしかすると学問一般もそうかも知れません。

おいおい学問一般で対話が必要なこともお話したいと思います。

 

哲学者は引きこもれない

 

もしも山の中で唯一人で唯一の真理を探求し続ける人がいるとします。

その人は哲学者ではありません。

神秘主義者です。

 

哲学をするというのは他の学問では解決できない問題を考えることで

その問題を解決できているかどうか、人に問いかける必要があります。

だから、本来的に哲学者は引きこもりにはなれないのです。

 

もしも、一時的に引きこもっていたとしても

それは誰かに話されるための思想であり、哲学です。

引きこもり続けることはできません。

 

まとめ

 

前回の記事で私は2つの失敗をしました。

 

1つ目は問題文の定義をしっかりとしていなかったこと。

2つ目は無意識のうちに問題文にない条件を付け加えてしまっていたことです。

 

この2つの失敗に酔って私は最も明快な解決策である

「穴の空いたミニドーナツを丸呑みする」ことができなくなりました。

 

私は無意識のうちに完食に「よく噛むこと」を含んでいました。

そんなの条件は私ですらも定義していないのにもかかわらず。

 

このミスは問題文の定義を怠ったことにもあります。

私はドーナツがリングドーナツであるという定義はしました。

しかし、

誰がドーナツを食べるのか。

どのようにドーナツを食べるのか。

そういった部分が曖昧なままでした。

 

そういった曖昧さを対話の中で気づくことができます。

本当に100文字程度の対話で曖昧であることに気づくことができます。

 

そして、曖昧であるがゆえに私は混乱していました。

 

そこで私は哲学をするならば、

すべての概念を曖昧にしないようにする必要があると思います。

 

概念を曖昧にすることでむやみに条件を付け加えてしまうためです。

 

こういった誤りを防ぐためにも哲学をする人は定期的に他人と

話をする必要があります。

 

つまり、表題の哲学者は引きこもりか?

という問いに対して、

哲学者ならば、誰もが

「他人とかかわらずにいることはできない。

 そういう意味でどの哲学者も引きこもりではない。」

 

そうやって概念の混乱を指摘しながら、

引きこもりではないことを肯定するでしょう。

 

今回は前回の記事で行っていた無意識の思い込みを正すことができてよかったです。

 

ここまで読んでくださった方に格別のお礼を申し上げます。

ご読了ありがとうございました。