うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

グロいってなんだ? 美しさの対義語としてのグロテスクを考える

 

前置き

 

※このブログにはショッキングな言葉が出てきます。

 グロテスクなものを論じるためです。

 もしも、吐き気を催したときは一旦、ブログから離れてください。

 そして、できれば落ち着いてからもう一度この記事に戻ってきてほしいです。

 グロテスクなものに対する議論はほとんどなされていません。

 グロテスクを知っておくことは非常に重要なのに、です。

 今回の議論がワクチンとして作用することを期待しています。

 

はじめに

 

形なき恐ろしいものに立ち向かうには書くしかないと思っている、ほうじょうです。

 

私はブログで何回か美しいものについて取り上げてきました。

シャープペンシルや日常風景の話です。

 

しかし、なぜシャープペンシルや日常が美しいか、結局私にはわかりませんでした。

 

手詰まりになった私はそこで逆に美しくないものはなんだ?と疑問に思いました。

何かの定義をするのが困難なとき、その真逆のことを考えてみることでその定義が決まることがけっこうあります。

 

そこで今回は美しさの定義をする前準備として、美しさの対義語、「グロテスク」について考えてみたいとおもいます。

 

グロいって結局何?

 

多分、みなさん割と簡単に「グロい」という言葉を使うと思います。

しかし、グロいって具体的にどういうことだろうということを聞いたことがある方は殆どいないと思います。

グロいという言葉はかなりあいまいなんです。

 

そこで今回のテーマはグロいを定義してみよう、です。

 

グロテスクなもの、具体例

 

※不愉快な表現が出てきます。場合によってはこの項は読み飛ばしてください。

 しかし、グロテスクの具体例を出すことは非常に重要だと個人的に思います。

 それでも、表現自体に気持ち悪さがあります。

 そのため、最悪読まずに飛ばしていただいてもかまわないです。

 

さて、私が個人的にグロいと感じるものを箇条書きで示します。

 

  • 人間や動物の臓器・死体・血
  • 複雑すぎるもの(外国語で書かれた専門書)
  • 歪んだもの  (適当に丸められたティッシュペーパー・床に落ちている服)
  • 自分そのもの

 

などなどです。

 

多分、大体の人がこういったものをグロいと感じると思います。

 

グロテスクの定義

 

では、具体例をもとにして、グロテスクの定義をしていきましょう。

 

まず、グロテスクの定義をするために、グロテスクなものに人がどういう反応をするのかを明らかにする必要があります。

例えば、グロテスクなものを見聞きしたり、想像したとき、あなたは吐き気を感じたと思います。

 

私も吐き気を感じます。

そのため、一旦グロテスクなものの条件として「吐き気を催す」ということを前提に進めます。

 

なぜグロいと吐き気を催すのか 

 

一体、なぜグロテスクを感じると人は吐き気を催すのでしょうか?

場面を考えてみます。

 

例えば、むき出しの生命や自我を感じるときではないでしょうか?

 

例えば、あまりにも複雑すぎるものに直面して、自分ではどうしようもないと感じたときではないでしょうか?

山積みにされた書類を目にしたとき、私は吐き気を催します。

 

例えば、いつもの姿と違うこと・ずれていることではないでしょうか?

たとえば、ぐちゃぐちゃになった紙に私は吐き気を感じます。

 

要するにあるべき姿から外れているものがグロいのではないでしょうか?

(ここで言うあるべき姿とは私達が考えているそれぞれの正しさのことです。)

 

あるべき姿から外れているものがグロテスクなのではないでしょうか。

 

もっと噛み砕くと理解しがたいものや理解できないものに直面したときにグロテスクを感じ、吐き気を催すのではないでしょうか?

 

グロテスクの定義

 吐き気を催す条件を集めてきました。

それでは、グロテスクの定義に移ります。

吐き気を催す条件をまとめると、

グロテスクとは「自分の身に危険を及ぼす可能性があるもの・自分の正しさから外れているもの・複雑すぎるもの」ではないでしょうか。

こういったものを目にするとき、人はグロいと感じると思います。

 

なぜグロテスクの話をする必要があるのか?

 

ここまでグロテスクの定義について話してきました。

ここからはグロテスクの話をなぜする必要があるのかお話します。

 

グロテスクはほとんど話題に挙げられません。

単純に不快だからです。

もっというと、吐き気を催すからです。 

 

しかし、グロテスクなものは目には見えづらいだけで確かにあるものなんです。

もしも、あなたの周囲にグロテスクなものがない場合、それはあなたや周囲の人、そして全く見もしらない赤の他人がグロテスクを取り除く努力をしているからです。

つまり、私達は自分の見えない場所にグロテスクなものを隠しておく努力をしています。

 

ここまでグロテスクについて話してきたのは、美しさの定義をするためでした。

美しさの定義が難しい。

だから、逆に美しくないもの、つまり、美しさの対義語が何かを考えました。

そして、私はグロテスクが美しさの対義語だろうとあたりをつけて、話をしてきました。

 

美しいものの条件に「敵ではないもの」というのが挙げられます。

そして、敵とは理解し難く、吐き気をもよおす存在のことです。

つまり、グロテスクとは私達にとって「敵」なのです。

 

そして、美しいものの条件を言い換えるとグロテスクでないことという条件になります。

 

ということは、美しさとはなにかという話をする上でグロテスクの話を欠かすことはできないのでは?と私は思いました。

 

美しいとは何かを考える上で、美しいものだけを集めても美しさの全体は見えません。

だから、美しくないものを考える必要があります。

 

だから、今回グロテスクの定義についてお話しました。

 

多分、ここまで読むだけでも気持ち悪いと感じたと思います。

気持ち悪さを我慢したり、無視して、ここまで読み勧めてくれたことにまずは感謝を申し上げます。

ありがとうございました。

 

まとめ

 

それでは、まとめに移りたいと思います。

いままで、グロテスクについての議論はほとんどされてきませんでした。

少なくとも、私が学生時代のころ、グロテスクについて直接的に話をしていた人は殆どいませんでした。

ということは、誰かがこの問題に取り掛かる必要があります。

じゃあ、私がやってみようと思いたったのがこの記事を書くきっかけです。

 

そこで今回の不愉快な論題、グロテスクとは何かについて考えることになりました。

考えた結果、グロテスクの条件は「吐き気をもよおすもの」だと一旦考えました。

そして、グロテスクとは「自分の身に危険を及ぼす可能性があるもの・自分の正しさから外れているもの・複雑すぎるもの」と定義しました。

 

この定義が正確なものかは正直わからないです。

抜け落ちている視点とかがあると思います。

その時は、ご指摘ください。

必ず修正します。

 

今日、グロテスクについての定義をせっかくしたので、明日は美しさについての定義をしたいと思います。

 

それでは、ここまで読了ありがとうございました。