うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

哲学入門の入門 「哲学」再翻訳の試み

はじめに

 

形なきものを形にするべく徒然に書きつける、ほうじょうです。

 

今回は

 

哲学って言葉そもそも何?

言葉の意味からわからないんだけど?

哲って何? 人の名前?

 

というような方のために書いてみました。

 

要するに、哲学って言葉、そもそもどういう意味だ?ということです。

 

私も気になっているんです。

なんで哲学という日本語はまかり通っているんだ、と。

私も学生の頃、哲学って言葉よくわからないなあって思ってました。

 

哲学って言葉からしてめっちゃわかりにくいじゃん?

(使っているうちに慣れたのですが、やっぱり最初はよくわからなかったです。)

哲ってなんだよと思っていました。

 

そこでじゃあ今風に哲学を再翻訳したら、どういう言葉になるのかを試す価値はかなりあるのではないかと思いました。

さっそく、やってみたいと思います。

 

輸入された言葉としての哲学

 

まず、哲学という言葉のもとの訳語は何かを考えます。

哲学のもともとの言語はギリシャ語です。

(いろいろ間にラテン語とか挟まっていますのでちょっと注意)

 

ソクラテスがフィロ・ソフォスと呼ばれていることから来ています。

簡単に訳すると

知を愛し、求める者

愛知です。(県じゃないですよ。)

 

哲(さとる)という字は仏教用語

 

じゃあ、哲という字って何だ?

なんで愛知学にならなかったんだ?となると思います。

 

この哲という時は「さとる」と読むんです。

要するに仏教用語なんです。

 

哲学が最初日本に入ってきたとき、その時のめっちゃよく考える人たちはどうやって訳そうかとなやみました。そうだ! 仏教からひっぱってくればいいんだ!と天才的な発想で画期的な策を考えつきました。

 

というわけで西洋から入ってきた新しい概念のほとんどに仏教用語が当てられました。

それによってなんとか知識の流入と翻訳の問題に対処したわけです。

 

そして、哲学の哲の字はその名残です。

かつての苦労がもうこの言葉そのものに詰まっています。

言葉の意味がわかるとなんだか愛着が湧いてきますね。

 

だけど、今になると哲学の哲の字がさとると読めること自体ほとんど知られなくなってきています。

私達は仏教用語習うわけじゃないですからね。

使うならばできれば、常用漢字だけにしてほしいなあと思うわけです。

 

だから、一般向けに名前を変えたり、別称を考えて読む必要が出てきていると思います。

 

哲学はヨーロッパやアメリカでは重視されているんです。

しかし、日本では重視されていない。

それは海外のものであるという事情からくるというだけではないと思います。

 

多分、哲学という言葉自体のわけの分からなさが哲学を日本で重視させない理由にしているのかなと個人的に思います。

ビジネス用語的にいうと、哲学という言葉自体のアクセス性が非常に低いんです。

ぜんぜん、見える化できてないんです。

 

だから、ここでいくつか哲学の新しい呼び方を考えてみたいと思います。

 

割と適当に考えたので、先生とかには怒られると思いますが、今はわかりやすさ重視で。

 

哲学の再翻訳語候補

 

愛知学

では、知を愛することだから、愛知学はいかがでしょうか?

良さそうですね。もともと、「知を愛すること」が哲学なのですから、これは十分に良さそうです。

 

求知学

物事の基礎の基礎を考えることだから、求知学とかはどうでしょうか?

これも良さそうですね。哲学の目的にあっています。

 

存知学・在知学

存在を考えることだから、存知学とか在知学でしょうか?

語感が微妙ですね。

 

疑知学

絶対的なものなんてあるのかと疑問に思うことだから、疑知学でしょうか?

疑うことは哲学とは切っては切り離せない関係にあります。良さそうです。

 

確知学

そして、知識を確実にするために考えることだから、確知学でしょうか?

これはかなり良さそうに見えます。

 

候補が多すぎますね。

どれでも、当てはまるし、一つを当てはめると元来哲学が持っていた領分を大幅に手放すことになりかねない結果になるかもしれません。

 

わかりやすさと正確性

 

ここでわかりやすさと正確性の対立が現れてきます。

私はわかりやすさと正確性のどちらをとればいいのでしょうか?

 

とりあえず、一旦わかりやすさを取ろうと思います。

正確性は後で固めます。

今はとにかく哲学がわかりやすく非常に身近な学問である感じを出す必要があるからです。

本当は正確性を疎かにしてはならないんです。しかし、今の私の力では正確性まで力が及びません。

読者の方の力をお借りしたいです。

 

一旦、私の目的に合わせます。

哲学って言葉、分かりづらすぎない?という方のためだけに文章を今私は書いています。

だから、わかりやすさだけに焦点を当てます。

一旦、正確性をある程度諦めます。

可能な限り、正確性は残そうと思いますが、力が及ばない。口惜しや。

 

というわけで一旦候補に出した、愛知学、求知学、在知学や疑知学あと、確知学を検討してみましょう。

 

いずれも現在作ったとりあえずの言葉なので、もっといいものを考えついたら教えてもらいたいです。こちらでも考えておきますので。

 

翻訳語候補を絞る

さて、検討を始めましょう。

 

どれも魅力的に思えますね。

とりあえず在知学はわかりづらいので却下します。

(現在はわかりやすさを求めていますので)

 

疑知学は哲学の分野といえば分野です。

しかし、疑うことは哲学においては手段でしかありません。

疑って、その結果知を得ることが重要なので一旦脇においてもいいと思います。

 

後は、愛知学、求知学、確知学が残りました。

 

愛知学はなんか愛知県についての学問のように見えて、紛らわしいため削除で。

 

次に求知学と確知学、どちらのほうがいいでしょうか?

私はどちらも甲乙つけがたいと思います。

それでも、どちらかに決めなければならないならば、確知学でしょうか?

 

単純に今までの哲学の伝統に則って、確かな知を探求することなので、どちらでもいいのです。

しかし、今現在哲学がやっていることは知識を確実なものとすべく努力することなため、確知学のほうがいいかなと思います。

(ここはちゃんと考えて見る必要があると思います。)

 

哲学は知識を確実にするための確知学

 

というわけで一旦哲学を私は「確知学」と呼びます。

正直、不安しかありません。

本当にこれを普及させるために努力していいものやら。

 

でも、やっぱりこの「確知学」普及を頑張りたいと思います。

 

まとめ

 

それでは、最後に今回、お話したことをまとめると、

 

哲学という文字そのものがわかりづらい。

だから、アクセス性が低く、哲学を学ぶ人自体が非常に少ない。

ということは哲学をもっとわかりやすい言葉に置き換えれば、もっと哲学に興味を持ってくれる人が増えるのでは?

という発想をしました。

 

そこで5種類ぐらい候補を上げました。

そのなかからわかりやすさだけを判断基準にして絞りました。

 

すると、「確知学」というものが残りました。

私は一旦哲学を「確知学」に置き換えて、広げ始めたいと思います。

(今は打つのが面倒ですが、かくちがくと打てば一発変換できるほどに広めたいです。)

 

いかがだったでしょうか?

哲学という名前を「確知学」という造語に置き換えてみました。

ちょっとでも、わかりやすくなったならば幸いです。

少しもわからなかったという方はお叱りの言葉をtwitterやこのブログのコメントに残してください。

必ず答えます。

 

それでは、読了ありがとうございました。