うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

哲学科卒業生が反省する グロさと美しさは本当に対義語か

 

はじめに

 

見えないものを形にしようとして握りつぶしてしまわないようにしたい、ほうじょうです。

 

今回は先日考えましたこの記事をより深めていきたいと思います。

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

具体的には、グロいという感情は美しいという感情と本当に同居しないのかを考えていきます。

 

引き続き、グロテスクって何だろうという方やグロいの嫌いだし、どうやればグロいのに耐えられるかわからないという方に向けて文章を書きました。

 

文章の訂正を通して、グロテスクを再定義する

 

昨日の文章でグロテスクを美しさの対義語と前提しました。

そして、美しさをグロテスクという対義語から定義しようと試みました。

 

しかし、グロテスクと美しさが本当に対義語かどうかちゃんと考えたほうがいいと指摘してくださった方がいました。

 

確かにその通りだと思いました。

完全に自分から抜け落ちていた視点でした。

形なきものを形にしたいという思いからすれば、当然新しい視点は形にするべきだと思います。

 

早速、グロテスクと美しさの両立する例を考えてみたいと思います。

 

創作物における血の美しさ

 

グロテスクと美しさが両立する例として小説などで、血の美しさが語られていることを上げます。

 

確か「血は生命を感じられて、この世の中で最も美しい」といったような発言をしていたと思います。

しかも、何人か血を美しいといったキャラクターがいたなあと思い出しました。

 

ということは、少なくとも漫画とか小説とかならば、血の美しさが語られることがあるということです。

 

私にとっては、血はグロテスクで生理的嫌悪感を催すものです。

しかし、ある人にとっては美しいと感じる可能性があるということです。

 

これによってグロテスクが美しさの完全な対義語である可能性は消え去りました。

なぜなら、両立してしまっているためです。

 

グロテスクの定義の修正

 

前回の文章で、美しさに「敵ではないこと」という条件をあてはめました。

さらにグロテスクに「敵であること」という条件をあてはめました。

 

しかし、敵という言葉自体がうつろいやすいものです。

 

敵とは自由自在に何にでも貼り付けることができる言葉です。

 

昨日の敵は今日の友というわけです。

 

つまり、「敵」という言葉はまさにレッテルの典型例なんです。

 

同時に私はごみという言葉に疑問を持っていました。

なぜなら、ごみという言葉もレッテルだからです。

 

にも拘わらず私は無意識のうちにレッテル貼りを行っていました。

ダブルスタンダードです。

 

一貫して、定義するという態度をとるならば、ダブルスタンダードは絶対にあってはいけないことです。

 

そのため、「敵」という言葉をもっと具体的でないものに変える必要があります。

これからは敵というレッテルを使用しないことを前提に進めていきます。

 

グロテスクの再定義

 

昨日のグロテスクの定義をここに引っ張ってきます。

 

グロテスクとは「自分の身に危険を及ぼす可能性があるもの・自分の正しさから外れているもの・複雑すぎるもの」ではないでしょうか。

 

 

この定義自体には問題はありません。

 

しかし、そのあとの文章に問題があります。

 

美しいものの条件に「敵ではないもの」というのが挙げられます。

 

そして、敵とは理解し難く、吐き気をもよおす存在のことです。

 

つまり、グロテスクとは私達にとって「敵」なのです。

 

 

この部分が大きな問題を持っています。

 

それでは、敵という言葉をちゃんとした言葉に置き換えます。

前回の定義を確認しましょう。

 

グロテスクとは「自分の身に危険を及ぼす可能性があるもの・自分の正しさから外れているもの・複雑すぎるもの」

 

要するに、グロテスクの定義に従うならば、敵とは「生理的嫌悪感」のことです。

もっとわかりやすく言うならば、「なんか危険だなという感じ」と「なんか気持ち悪いという感じ」のことです。

生理的嫌悪感とは理由不明なのに感じる嫌悪感、不快感のことです。

 

これで敵という言葉を生理的嫌悪感、すなわち危険とか気持ち悪いとかそういう言葉に置き換えることができました。

 

それでは、グロテスクの再定義に移ります。

 

グロテスクは吐き気を催すことです。

そして、吐き気を催すことは生理的嫌悪感があるということです。

よって、グロテスクは生理的嫌悪感があるということです。

 

これで、グロテスクは生理的嫌悪感があるということだと再定義されました。

 

ちなみに、昨日の定義をこの定義にあてはめてみます。

 

あるべき姿を外れているということは危険ということです。すなわち、グロテスクの定義に入ります。

生理的嫌悪感の中に入れ込むことができます。

 

複雑すぎるということはそれに対処する方法がわからないということです。

危険を感じるのに十分でしょう。

 

ということは十分前回の定義を含んだより実態に近い定義ができたと思います。

 

定義に従って、文章を書き換える

 

それでは、文章をちゃんとした形に修正しましょう

 

美しいものの条件に「生理的嫌悪感がない」というのが挙げられます。

 

そして、生理的嫌悪感とは、危険を感じたり、なんだか気持ち悪いなと吐き気をもよおすことです。

 

つまり、グロテスクとは私達にとって「生理的嫌悪感」なのです。

 

と修正できます。

 

グロテスクと美しさ

 

「生理的嫌悪感」は美しさを感じる邪魔になることは確かです。

 しかし、どうして気持ち悪いのに美しいとか危険なのに美しいということが成り立ちうるのでしょうか?

 

血の美しさを例に上げて見ましょう。

 

血が美しい理由は以下の通りになります。

 

①鮮やかな赤色である

 

1つ目の理由は色が美しいことです。

鮮血は呼吸を整えて、しっかりと見据えれば、鮮やかな色をしているかもしれません。

私ではわからないのですが。

 

②生命を象徴している

2つ目の理由は血が生命を象徴しているということです。

血液は古来より生命の象徴として見られていました。

血液を生命の象徴として見るならば、生命を美しいと言う人ならば、血が美しいものだと同意するかもしれません。

 

③気持ち悪い、危険だという感じを快感に変えている

3つ目の理由は気持ち悪さを快感に変えているということです。

これならば、私でもわかります。

気持ち悪さも一種の感情で、意識してみれば、そこに美しさを見出すことができるかもしれません。

 

もしかすると、気持ち悪いもの自体が美しいのではなく、気持ち悪さを快感に変えているだけなのかもしれません。

マゾヒストという言葉があります。

いじめられたり、痛みを感じるとなんだか気持ちが良くなる人たちのことを言います。

 

このようなマゾヒスト的な感情が血を美しくしているのかもしれません。

 

そういえば、血を美しいと言っているキャラクターのほとんどが頬を赤らめていた覚えがあります。

 

もしかすると、グロテスクにおける美しさというのは気持ち悪さを快感に変えることを言うのではないかと思います。

 

私には実感がないため、正確に追求することは難しいので、仮説程度ですが、なんだかもっともらしいと思います。

 

まとめ

 

グロテスクと美しさは本当に対義語かどうかを考え直しました。

結果、どちらも両立する可能性はあるため、対義語ではないと結論がでました。

 

そこでグロテスクを美しさの対義語と前提とした議論を修正する必要が出てきました。

 

まずは、敵という言葉を「生理的嫌悪感」すなわち「危険さ」「気持ち悪さ」に具体化しました。

これでレッテル貼りのような定義の体をなさないものを排除できました。

 

そして、グロテスクを「吐き気を催すもの、生理的嫌悪感を催すもの」として再定義しました。

 

グロテスクが美しさを感じる邪魔をするのは確かです

しかし、両立する例も十分にあります。

 

その典型例として血をあげ、血はなぜ美しいのかを考えました。

 

鮮やかな赤色をしているとか生命の象徴であるとかもっともらしくわかりやすい理由も出ました。

 

しかし、それよりも不快感を快感に変えていると考えるのが自然なのではないかと私は思いました。

そのような方法ならば、グロテスクにおいて美しさを感じることができるかもしれないと思いました。

 

完全な無感動ならば、美しいという感情を起こすこともできないので。

いわゆるマイナスの感情も何らかの方法でプラスの感情に変化したりします。

人間の感情は複雑ですね。

 

読了ありがとうございました。