うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

疲れ果てた人に 日常という美術館

 

はじめに

形なきものと思い込まれているものに形があると叫ぶ、ほうじょうです。

 

今回は記念すべきはじめての記事です。

何を書くか思い悩みました。

しかし、思い悩んでいては先に進めません。

とりあえず現在の関心事を書き連ねていきたいと思います。

 

美しいって何?

 

私の現在の関心は「美しいとは何か」です。

 

みなさんは最近「きれいだなあ」と思ったことはありますか?

 

私は毎日きれいなものに触れています。

毎日、きれいだなあと感じています。

例えば、日々その姿を変える空やシャープペンシルやペットボトルのような日用品などに触れています。

やっぱりきれいだなあと思っています。

 

そこでふと思いました。

日用品のことをきれいだという人は非常に少ないということに。

私は毎日美術館通いしている気持ちなのに、他の人はそうは思っていないみたいだということに気づきました。

 

一体どうしてなのでしょうか。

どうして日用品の美しさに思いをはせ、語る人が少ないのでしょうか。

めちゃくちゃ気楽に美しさに触れることができるのにどうして美しさを語らないのでしょうか。

 

今回はその理由を考えてみました。

 

日常が美術館ではない理由

 

①あまりにも当たり前過ぎて、あえて美しさを語る必要がない

では、日用品の美を語ることができるようになるためにはどうすればいいでしょうか?

まずは、当たり前すぎるものは美しさを見過ごされやすいという性質があるということです。

当たり前過ぎて、美しさを考えない。美しさを感じられなくなる。

そういうことが往々にして起こりうると思います。

 

ですが、その場合私はこの記事を拡散するだけで事足りることになります。

なぜなら、やっぱり美しいものに囲まれてたなと考えるだけですむからです。

とても楽ですね。

たくさん拡散して、日常はこんなにも美しかったんだなあと思いを馳せながら、歩く趣味の人を増やしたいと思います。

 

②大量生産品は美しくないという先入観がある

もしかすると、大量生産品は不当に美しさを見られないように固定観念があるかもしれません。

ならば一工夫加える必要があります。

大量生産品や日用品はたくさんありすぎて、困ることがあります。

そして、それは日用品があまりにもありふれていて、非常に安く、非常に多く、そして、多すぎてごみになるという性質があるからです。

この性質は美しさの典型である、唯一無二であることと反しています。

そして、美しさの対局にある「ごみ」という無価値の極地に大量生産品が置かれてしまうようになります。

 

だからこそ、私は一旦考えてみるのをやめてみるのがいいと思います。

大量生産品だからという言い訳を意図的にやめてみましょう。

すると、なんかきれいだなと。

使い古した道具には愛着が湧いていて、特有の美しさがあります。

侘び寂びの精神です。

考えすぎると美しさを感じにくくなりますからね。

美しさを感じるためには判断しないことも重要です。

 

皆さんには、美しさを感じるために一度いろいろなことを考えることをやめて、周囲を見渡してもらいたいです。

 

そうすれば、日用品の形、感触に喜ばしさを感じることができるようになると思います。

 

③美術品は美術館に行かないと見られないと思っている

 

美術品は美術館に行かないと見られない。

美しいものは美術館にしかない。

だから、美術館に行く必要がある。

その固定観念を変えましょう。

 

たとえば、美術館と名前がついていなくても、美術館といえるようなものはたくさんあります。

美術館はあなたの家自身です。あなたの通勤・通学風景です。会社や学校の風景です。

遊び場の風景です。

ありとあらゆる日常の風景が美しいものです。

 

ここまでくると、逆に美しくないもののほうが少ないです。

 

車の騒音ぐらいかな?

車の騒音も聞き方によっては、とってもスタイリッシュだし、美しさがあるとも言えるな。

 

はい、というわけで美しくないものは日常にはありません。

見方次第ですが、美しくないものはありません。

見方次第ですが、私達は美しいものに囲まれています。

 

美しくないものに囲まれているよりも、美しいものに囲まれている方が楽しいと思います。

 

私事なんですが、私は高校のこときらいなんです。

でも、高校の校舎の美しさは認めざるを得ないと思っています。思っていました。これからもずっと思い続けるでしょう。

どれだけ憎らしい場所でも美しさに変わりは生じないのです。

逆に憎らしさが校舎の美しさを引き立てます。

憎らしさがスパイスになるという理由で学校の校舎が私は非常に好きです。

特に夕暮れの校舎が一番好きです。

心のなかで相反する思いがあるのですが、それでも学校の校舎だけは大好きだと胸を張って言えます。

 

まとめ

 

要するに、見方を変えれば、日常に美しくないものはないということです。

そして、憎らしいものにも美しさは宿っています。

怒りに囚われて、美しさに目を向けられなくなるよりは、怒りはあるけど、やっぱり美しいなあと感じるのが一番いいと個人的に思います。

 

以上で一旦締めくくります。