うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

科学と宗教の差はどこにある? 教科書のドグマと小5の思い出

ほうじょうです。

隔日更新一回目はかねてより持っていた

科学と宗教はどこに差があるのかと、差なんてないじゃないかという疑念を書きます。

 

突然ですが、前置きしておきます。

実は私、科学と宗教の区別がついていません。

完全にアレな人に聞こえるでしょうが、実際アレな人です。

 

ですが、私はヤバい人に甘んじるつもりはありません。

そのための記事です

 

 

 

科学と宗教を論じる準備―宗教の定義

 

今回参考にする本は『宗教学入門』著:脇本平也です。

特に第5部「宗教の構成要素」より宗教の定義を引き出し、

それを科学にあてはめながら進めていきます。

 

宗教は

教義

儀式

教団

宗教体験に分けられます。

 

今回特別に取り上げるのは、教義。

理由は自分が学んできた科学が教科書産のものだから。

つまり、自分にとって最も親しみ、そして憎んでいる教科書に対して

最も近いのが教義だからです。

 

それ以外の話はまた後日別の記事で検討します。

 

教義のさらなる要素

 

教義の内容は

人の生き方を問う人生観

人が生きる空間を問う世界観

物事はどのように存在しているのかという実在観に分けられます。

 

科学は人生観を問えません。

実験・観察によって共有可能なデータを出せないからです。

 

科学は世界観を立方体ととらえます。

そちらのほうがデータを取りやすいからです。

 

科学は他人と共有できるものを実在しているといいます。

簡単に言うとデータのことです。

 

この辺りは宗教とかなり差があります。

そもそも宗教の間ですらも世界観は変わるので、当然と言えます。

この辺りは科学と宗教の差を論じるうえでは必要なさそうです。

 

そして、形式。

 

物語のように話す神話(ミス)

教祖の説いた教説(ドクトリン)

体系化・組織化された教義(ドグマ)

のような形式で人々に伝えられます。

 

神話は科学では最も忌み嫌われますが、いまだ排除しきれていません。

科学は常に変化する性質を持つためです。

 

科学に教祖はいないと思われるでしょうが、普通にいます。

ニュートンなどがあげられます。

 

科学は当然組織化されています。

○○研究所みたいに細分化されて、各学問同士の関係は希薄です。

 

私はこの形式という点で科学と宗教が同一であると言います。

教科書などは形式の最たるものでしょう。

 

科学と宗教が似ていると思ってしまった経緯

 

私は小学生のころ、理科の授業が好きでした。

単純に理論が覚えやすかったからです。

ですが、理科の実験・観察は泣くほど嫌いでした。

震えながら、耐え忍びました。

 

フェノールフタレイン液が透明から赤色になったからなんだというんだろうとか

スチールウールが燃えましたとか

すでに教科書で学んだことを焼き直すことにうんざりしていました。

 

教科書に書いてあるじゃん……。

そんな無意味な再確認のためだけに貴重な資材を利用する意味はどこにあるんだろう……。

 

私はNHKMOTTAINAI精神を叩き込まれていたので、それと相反する理科の実験にいら立ちを覚えました。

 

現在の最先端科学でも

素粒子を観測するための遠心分離機の巨大さに私は感動どころか呆れすら感じました。

そんなことをする意味がどこにあるのかと。

 

その形式は自分にとって到底理解しがたいものでした。

ですが、なんの意味があるかはすでに勉強してあるため、理解してしまっています。

 

意味があるからそのように資源を使っていいのかと考えてしまいます。

アレです。動物愛護の精神を無機物にまで拡張してしまうヤツです。

そのせいで科学の形式に納得できないのです。

 

科学に宗教の定義は当てはまるか

 

科学の形式は「教義のさらなる要素」の段で触れました。

ここからは詳しく触れていきます。

 

まずは神話。

科学でも物語を用いることはありますが、それは一般に向けてであり、宗教も同じです。

この辺りは科学と宗教が思想というくくりに含まれているかつ複雑だという点で

自然なことです。

たとえ話でもいいのでとにかく理解することが重要だからです。

 

教説はニュートン力学などの学説。

 

ただどうしても学派というものは必要で教科書にもニュートン力学

簡単に絶対的に正しいものとして描かれています。

 

教義は素粒子研究所や生物研究所などの研究所が当てはまります。

 

研究のためにはお金も必要ですし、組織化は必須です。

これは組織であるという点で会社や学校とも同一ですね。

 

自分の触れてきた教材の問題

 

ここまでまとめて思ったことは、自分が触れてきた教材が狭すぎるのが問題の原因なのではということです。

 

私が科学と宗教を混同する理由は教説や教義が絶対的すぎるという点です。

教科書はそのどちらも兼ね備えていますね。

 

私は言っていることとやっていることの違う、科学の態度に小学生ながら、

見切りをつけてしまいました。

早すぎましたね……。

 

科学の理念と現実

 

科学の本来の理念を書いておきます。

 

科学は唯一絶対の理論を追い求めます。

ですが、常にその検証を欠かすことはありません。

これが科学の理念です。

 

ただ、現実すでに生み出された理論の再検証は科学哲学が担っています。

科学の再検証は科学の仕事に含まれていないのです。

 

余談ですが、科学者からは科学哲学は嫌われているようです。

自分の信じるものを批判されると気分はよくないですからね。

 

……やっぱり科学の理念は徹底されていないように思います。

 

科学の形式化

 

教科書は断定調で書かれています。

そこには一切の疑義をさしはさませない、圧力があります。

そこには宗教における教条主義(ドクトリン)・教義主義(ドグマ)が含まれているように思います。

 

私はこのような点で宗教と科学が同一であると感じます。

本来の化学は宗教とは一線を画すべく動いてきたはずなのに、現実はそうなっていない。

 

そこで本記事が生まれます。

 

つまり、私が批判すべきことは科学と宗教が同一であるということではなく、

科学が本来持たないように努めてきたはずの教条主義

簡単に信じられていることです。

 

言っていることとやっていることが違う。

科学者は自分たちが宗教から最も遠い位置にあると信じ切っていますが、

その態度自体が科学の理念においておかしい。

 

私は科学がドグマに陥っていることを許せなかったのでしょう。

言っていることとやっていることが違うことにいら立ちを感じていたのです。

だから、私は文系に流れ着いてしまいました。

 

信じられなければ理系として受け入れられないのです。

信じなければ始まらないという点で科学と宗教は同一です。

 

その態度を科学者がとり続ける限り、私は宗教を持ち出して挑発していきたいと思います。

それは科学の精神が欠けているんじゃないかと。

 

まとめ

 

今回は宗教の内容、教義という点から科学と宗教の差を考えてみました。

結果、私が学んできた科学が教科書という最も形式的な教典を利用していたからこそ私は科学と宗教を混同したと結論を得ました。

 

やっぱり科学と宗教は違いましたが、違いは内容だけでした。

宗教で最も忌み嫌われている形式が科学でも同じ構造になっています。

 

授業は好きだったけど、実験が嫌いだったのはそこに形式主義を感じ取ったからだと納得できました。

 

というよりも本来そのような形式から離れるために科学があるはずなのに、

教科書はそうなっていなかった。

私が宗教と科学を混同した原因です。

 

とりあえず宗教と科学を混同した理由がわかったので、

これからは科学の形式をもっと深めていきたいと思います。

 

次は宗教の要素、儀式から考えると思います。

 

ここまで長文を読んでいただいた方には感謝を。

ご読了ありがとうございました。

 

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