うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

勉強できないのは信仰心のせい!? 科学の信仰の自由 科学と宗教の差 儀式編

隔日更新でゆとりの生活を送る、ほうじょうです。

 

みなさんは勉強は得意でしょうか?

私は得意・苦手がはっきりしているタイプです。

例えば、数学や歴史がものすごく苦手で、全然頭に入ってこないんですよね。

 

みなさんも苦手な教科はあると思います。

 

そんな方に朗報です。

 

実は勉強ができないのは、頭の良さのせいではなく、信じられないせいなのでは?

という提案です。

 

例えば、数学。

本当にこんなの学ぶ必要ある?

物理で必要な時だけ学べばよくない?

 

そんな疑念から数学を放り捨ててしまった方もいらっしゃるかもしれません。

かくいう私もその一人です。

 

要するに科学はその意味が理解できなければ、習得できないということです。

もっと言えば、科学は信じることから始まります。

実は知能や努力不足の問題ではないのです。

 

そのような主張に説得力を持たせるべく、科学と宗教の差を考え、明確にします。

 

それでは本文にどうぞ。

 

 

 

前回の振り返り

 

前回の記事では結論として「科学と宗教の形式が同じである」という命題が得られました。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

ご興味がある方はぜひご覧いただきたいです。

科学と宗教の形式が同一であるという結論を得るための分析があります。

 

さて、さらに「科学の形式」を深めるために宗教の定義、儀式・儀礼を考えていきます。

 

儀式の定義

 

目的がある

一定の形式・順序

象徴的行為

 

これら3つの分析結果があります。

『宗教学入門』著:脇本平也 講談社学術文庫 1997 第5部を参考にしています。

 

科学において儀式は当てはまる?

 

儀式の定義が終わったので、ここからは宗教の儀式に

科学が当てはまるかを考えていきます。

 

目的があるのはどのような活動でも同じです。

それがあいまいか明確かの違いがあるのみです。

程度の問題ですね。

 

主題とは外れていますので、ここではとやかく言いません。

 

さて、ここからは重要です。

一定の順序・形式を持つという点は注意が必要です。

なぜなら、科学の意図として宗教の形式から離れようと努めるというものがあるからです。

科学自体、宗教から分離・独立したもので、宗教との差別化のために宗教とは別の形式を行い続けなければならないと努められてきたからです。

 

ですが、この試みは失敗しています。

現実問題、最低限の基礎基本すらも身についていないということが起こっています。

 

基礎基本が身につかないのはその理念が理解できないからです。

 

例えば、素粒子物理学の加速機。

あれ、めっちゃ大きいんです。

場所をとるんです。

でも、そこに必要性があると感じている人が割といます。

 

ちなみに私は必要があるのはわかるけど……、

そこまでする必要ある?派です。

 

どうしても科学も一定の順序・形式を用いざるをえず、

結果的に宗教の儀式の見かけと同じに見えるようになってしまいます。

 

言い方は悪いですが、私は科学の大掛かりな実験器具に宗教の儀式を感じるのです。

あれです。私にとっては怪しげな儀式と同列です。

悪魔召喚の儀式とかにも彼らにとって必要なのはわかるけど、そこまでする?

みたいな感想を持ちます。

 

象徴的行為も同じですね。

科学だって図式化を行います。

実際に観測されたわけではないものを実験のデータから類推します。

原子などは光学顕微鏡などでも目視できないわけですので。

 

巨大な加速機を使っても、得られるデータはわずかです。

巨大な偶像と見かけが同じに見えるのです。

大仏も作られた意図とその効果があります。

加速機に対して偶像であるということはこの点で妥当です。

 

結論として当てはまるという答えが得られました。

 

現代科学の形式

 

ここまでで宗教の儀式も科学の実験形式も見かけ上は同じとわかりました。

この見かけ上同一というのは、内容や目的は違うことを意味しています。

ですが、そこには宗教的行為に似た形式にどうしても陥らざるを得ないという

難題が含まれています。

 

難題をそのまま字義通りに解釈すると

形式という点で科学と宗教は同一であることが導かれてしまいます。

 

科学は宗教の一種だという提案

 

だから私は常識から外れた仮定をせざるを得ません。

科学という学問は宗教の一つの特殊な形式であるという仮定です。

 

信じがたい方もいらっしゃると思いますが、

私も数学を信じがたいと感じます。

 

そういう点で科学は宗教の一種なのです。

 

複雑化を重ねることで科学はわかりづらく、そしてまずは教科書を信じるところから始めなければならなくなっています。

 

中世の天動説が極端に複雑でありながらも、整合性を保っていることと同様に

現代の科学もこの天動説と同じ状況にあります。

 

つまり、科学が宗教の一つの形式であると述べるのは、

まず科学は前の学説を信じなければならないのです。

 

科学を信じるという問題

 

どうしても苦手な教科はみなさまにもあったと思います。

基本的には勉強不足だとかあしざまにいう人は知能不足だとかで片づけられてしまいます。

 

ですが、実はそれだけの問題ではありません。

そこには信仰の問題が絡んできています。

誰も指摘していないだけです。

 

科学には学説を学び、身に着ける必要があります。

そこには教典を身に着ける態度の面影があります。

 

つまり、科学もまた宗教と同様に信じることから始まるのです。

 

初めから学説が間違っていると食ってかかると全く身に付きませんし、

納得はおろか理解すらできません。

そのような現実から考えると、科学もまた宗教と同様に信じることから

始まるというほうが自然です。

 

学べば誰でも習得できる。

ですが、そこには抜けがあります。

科学を学ぶためにはそれが正しいと信じる必要があるという視点です。

 

だからこそ、あえて私は科学は宗教の一種で信じることから始まるといいます。

宗教に対する疑念と同様に科学に対する疑念も浮かびうるのです。

まさに信仰の拒否と同様の構造がここにはあります。

 

科学における信仰の自由がない

 

憲法には信仰の自由が保障されています。

ですが、科学に対する信仰については実質的には強制的です。

信じられなければドロップアウトするのみです。

 

それは同じ宗教を信じない人を排除する一番避けたい状態を

生み出してはいないでしょうか?

 

私はその現状に異を唱えます。

憲法において信仰の自由、すなわち信仰しない自由があるのならば、

宗教の一形態である科学を信仰しない自由もあるのではないかと主張します。

 

科学が必要なのはわかります。

ですが、科学の信仰が強制的であるという現状は科学が最も忌み嫌っているはずの

形式主義権威主義を科学が擁護してしまっています。

 

そこについて無自覚なのは科学の理念を破っています。

ぜひ今回の記事が科学における形式主義について考える機会になれば幸いです。

 

まとめ

 

今回は科学と宗教の形式が実質的に同様であるということを主張しました。

形式が同じであるならば、そこには信じるという行為が含まれているはずです。

信じなければ習得できないからです。

 

だからこそ科学は宗教の一種であると私は主張します。

まずは信じることから始まるという点で科学と宗教は同一です。

 

科学にはあとで自分を検証する可能性がありますが、

検証するためにも科学を身に着けている必要があります。

科学を正しいと信じなければ、検証もできません。

 

全国で特定の学問につまづいている人が割と多くいます。

それは努力不足や知能の問題にすり替えられていますが、実は信仰の問題なのです。

 

科学の形式事態に疑問を持つ人には科学を学ぶ権利すらも与えられません。

宗教の一番悪いところがそこには凝縮されてはいないでしょうか?

 

そういった現状があるということを指摘するためにも今回の記事を書きました。

 

今回の記事で勉強が苦手なせいでいい大学・いい会社に入れなかったと感じられている方が、実は信じることから科学は始まるという誰も教えてくれない前提を知っていただき、すっきりする機会になれば幸いです。

ご読了ありがとうございました。