うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

表現の拡散の自由はあるか? ゾーニングの可能性

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はじめに

 

自由とはなにか考える、ほうじょうです。

 

今回は

表現の自由において全く議論が進んでいない、表現の拡散についてのお話をします。

 

表現の拡散は表現の自由において大きな役割を果たしていますが、

昨今ではなぜかカジュアルに表現の拡散の自由は制限されるべきと話されています。

 

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

かくいう私も昨日の記事でゾーニングのみが表現の自由を実現化する可能性があると述べました。

完全に無意識でした。

 

そこでゾーニングが原理的な表現の自由において許されているかを考えます。

 

結論としては原理的な表現の自由においてゾーニングは認められていません。

なぜなら、ゾーニングによって表現の自由が規制されてしまい、本来届けるべき相手に表現が届かず、統制されてしまうためです。

 

そのような権力に対抗するための手段としての表現の自由であるはずなのに、

これはおかしいかなと思い、考察に至りました。

 

ゾーニングとはなにか

 

ゾーニングとは、特定の表現を自分の心の中や身内で留めることなどを含めて、

表現の拡散を規制することです。

 

昨今の表現の自由界隈ではカジュアルにゾーニングが許容される雰囲気にあります。

かくいう私も許容する一人です。

 

ですが、ふとゾーニングって表現の自由の反対のことしているなと感じました。

 

不愉快な表現はそれを好きな人の間だけで共有されればいいのでは?

そんな甘い気持ちも沸き立ちますが、この疑問が放置されるべきではありません。

 

ゾーニングは原理的な表現の自由においては成立しません。

なぜなら、表現が正しいのならばそれは当然他人に知らされてしかるべきだからです。

表現の自由内心の自由ではなく、思想を他人に開陳する自由であるはずです。

 

だから、本来ゾーニングは原理的な表現の自由においては許容されません。

思想を拡散できなければ、そこに表現の自由の意味はないからです。

この現状は原理的な相対主義者によって批判されてしかるべきのはずです。

 

ですが、ゾーニングは簡単に議論なく受け入れられています。

それはなぜでしょうか?

 

知らない自由と公共の福祉

 

表現の拡散の自由と対立する自由があります。

それは内心の平穏の自由。

不愉快な表現を目にしないことで心理の安寧を保つ自由。

すなわち、知らない自由です。

 

この知らない自由と表現の拡散の自由は真っ向から対立します。

そして、いともたやすく知らない自由が勝利します。

現に簡単に勝利しているという現状があります。

 

性的表現は統制され、暴力的な表現は批判されます。

子供の目に入れるべきではないと言われます。

 

このような現状が簡単に成立しています。

それ一体なぜでしょうか?

 

そこには表現の自由を唯一制限する公共の福祉が関係しています。

人々の心をかき乱すような表現は当然慎まれるべきであるという

道徳的な常識が無批判に受け入れられていることが関係しています。

すなわち、公共の福祉によって表現の拡散の自由が制限されているということです。

 

そのような話を一度も聞いたことはなく、私も昨日偶然気づきました。

この知らない自由は表現の拡散の自由を語るに値しないほどのものにするほどの

価値があります。

 

私も昨今のハロウィンの騒動や政治的な混乱の話は聞きたくないですし、

公共の福祉によって表現の拡散の自由が制限されるのも受け入れられます。

 

ですが、それとは別に

本当にゾーニングはされて然るべきなのかについての議論がありません。

 

ゾーニングの成否についての議論はもっと活発に行われてもいい

 

私も気やすくゾーニングを許していましたが、こういった無意識の領域で許容されている事柄について批判を加えるべきだと私は思います。

 

これは倫理的相対主義者として話すのではなく、

相対主義の原理を論ずる者として話しています。

普段の立場はかなぐり捨てて原理的な相対主義者として話しています。

 

ゾーニングというのが相対主義における表現の自由においてどのような役割を果たしているのか。

もっと話し合われるべきです。

 

ゾーニングが公共の福祉において正しいということとは別に

原理的な相対主義においてのゾーニングがどのようなものかを話し合ってほしいです。

そこには全く掘り出されていない何かが含まれているかもしれません。

 

私も模索中で全く議論がされていないことに気づいたばかりです。

どうか皆さんのご意見を聞かせていただきたいです。

 

まとめ

 

今回は完全に思いつきで話しました。

まとまっておらず、何が言いたいのかわからないと思われる方もいらっしゃるでしょう。

 

それでも、無批判にゾーニングが許容されるよりは

批判を受けて理論的な立場を強めたゾーニングが行われるべきだと思います。

無批判な表現の弾圧は相対主義における表現の自由が最も恐れる行為だからです。

 

単純に今回の記事は警鐘として書き記しただけのものです。

今回は倫理的相対主義者をお休みして、原理的相対主義者としてお話しています。

 

皆さんのお役に立つというよりも皆さんの使っている道具がどのようなものなのかを考えるきっかけになればと思います。

 

ここまで、駄文を読んでいただいた方には格別の感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。