うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

あなたの信じるものを私は信じます 多神教を突き詰める

 

 

はじめに

 

形ないものだろうが形あるものだろうが等しく信じている、ほうじょうです。

 

今回は

 

私の偶像信仰に対する考えをお話ししたいと思います。

ありとあらゆる偶像、概念も含めた偶像を信じることとその根拠を

書いていきます。

 

偶像崇拝とは何か

 

偶像崇拝とは仰々しい語感がありますが、単純に仏像を拝んだりすることを言います。偶像崇拝は宗教を達成するための最大の手段です。

例えば、神様の像を作ったり、巨大な岩を奉ったり、好きなアニメのキャラクターのフィギュアを作ったり、そういった形のあるものを自分の支えとして信じることを言います。

 

ここでは形のあるものだけを偶像崇拝の例として挙げました。

しかし、別に形のないものでも十分に偶像崇拝することは可能です。

絵を描いたり、物語にしたためたり、詩を書き連ねたり。

いろいろな手段で偶像崇拝は可能です。

 

一神教ではなぜ偶像崇拝が禁じられているのか

 

みなさんも小耳に挟まれたことはあるかもしれません。

そういえば、神様の像ってキリスト教とかイスラム教では禁じられていたなということを。

 

これには合理的な理由があります。

 

まず宗教というのは心の最後のセーフティーネットです。

 

詳しくは以下の記事にまとめました。

 

 

utakatanoatosaki.hatenablog.com

 

 

その最後のセーフティーネットを形あるものに任せて大丈夫か?

そういうところから偶像崇拝の禁止の発想は生まれます。

 

要するに自分に信仰している像が破壊されたとき、

絵を冒とくされたとき、

物語を焚書されたとき、

その人は何を感じるでしょうか?

 

深い絶望です

それこそ死にかねないほどの深い深い絶望とそれを埋め立てるように湧き上がる怒りです。

 

きっと一神教を考え出した人たちはそのように偶像が破壊される様を見てきたのでしょう。

そして偶像を破壊されたことで悲しみとそれを埋め立てるように湧き上がる怒りを見てきたはずです。

 

偶像崇拝禁止しなきゃ……!

 

そういった気持ちが湧き上がるのは自然なことだと思います。

そして彼らは考えます。

形のないものを唯一の偶像とすれば、偶像を破壊される悲しみと怒りを生じさせずにすむのではないかと。

 

偶像崇拝を禁ずるのは不可能

 

以上のものは私の憶測です。

誰一人として以上のような話をしていませんでした。

私は一度も聞いたことがありません。

だから、憶測にすぎません。

 

ですが、本来の宗教の役割、緊急時に命をこの世に縛り付けることを果たすためには

一神教というのは本来最も効率的なものです。

形がないわけなので、絶対に壊れません。

絶対に壊れないということは偶像の破損によって生じる絶望を防ぐことができます。

 

にもかかわらず、人は偶像崇拝をします。

本来自分の身をこの世に縛り付けるための宗教が

偶像のためにこの世からあの世へと行く理由になってしまうのです。

偶像崇拝はほとんど自然の性なのでは?とさえ言いたくなります。

 

例えば、江戸時代にキリスト教の弾圧の時に踏み絵が使われました。

その踏み絵は明確に偶像です。

そしてキリスト教偶像崇拝を禁じていました。

にもかかわらず絵を踏めずに命を落とした人が数多くいます。

 

偶像崇拝を禁ずるのは無理に近いことです。

だからこそ、殉教者が現れてしまうのです。

本来殉教者などというものは宗教は想定していません。

 

後々殉教者が現れてしまうことに対して後付けで理由をつけるのみです。

 

私の信仰

 

私は以上のように完全な鎖を作る努力とそれが失敗した様を見てきました。

 

そのため結局偶像崇拝を禁ずるのは不可能なのだから、

いっそ偶像崇拝を突き詰めてはどうかと考え始めました。

 

そういった思考に至ったバックグラウンドとして

私の出自があります。

 

私の父は仏教の浄土真宗をものすごく軽く信じています。

お墓参りにもいくし、当然初詣も行きます。

一度宗教の話を父から聞いたことがあります。

 

「自分の心の中の神様だけを信じている」

 

そういった話でした。

 

私の母はキリスト教カトリック教徒です。

昔、教会に連れて行ってもらって、

なんだこの行事!? 驚異的につまらないな!?

と感じた覚えがあります。

 

ですが、教会の礼拝をさぼって読むキリストの生涯は非常に面白いものでした。

「キリストには負けてられんな……」

 

子供心にそう感じました。

 

というわけで私の中では一神教多神教がまぜこぜになっています。

そして、一つ極端な結論に至りました。

 

「すべての偶像を肯定すればいいのでは?」

と。

 

というわけで私は神仏が集合した仏教と普通にキリストの像を礼賛するカトリックの両方を自然に矛盾なく信じています。

 

それゆえにイスラム教もヒンドゥー教ギリシャ神話もローマ神話

同時に等しく信じています。

 

要するに私は割と過激な多神教というわけです。

何か特定の宗派に所属することはできません。

思想信条の制限としていずれの宗教も等しく価値を持つため、

どれか一つの宗教に肩入れすることができないためです。

 

日本人と新興宗教

 

そこでここからも憶測なのですが、

日本人は割と私の信仰形態に近いのでは?と感じました。

 

盆も正月も祝いながらクリスマスを祝いますし、

発端は商業とはいえ、バレンタインやハロウィンも当然のように受容されています。

 

日本人のほとんどはものすごく緩い多神教

その自覚すらもわかないほどに内面化、自分の一部にしているのではないでしょうか?

 

周囲を見て、感じたことなのでこれは憶測です。

 

そこで感じたのは

新興宗教の類は日本人の信仰の形態にあまり合わないのでは?」

ということです。

 

ものすごく緩い多神教、ありとあらゆる種類の偶像を複数同時に信じることができる精神に対して新興宗教はあまりにも厳しすぎるのではないかと感じます。

 

お金は求めるは戒律は求めるは家族に犠牲を強いるは。

それに対して嫌悪感を感じるのは割と当然のことだと思います。

 

日本人のほとんどはそのようなコストをかけずに各々の好き勝手に合わせて、

信仰する偶像を選択します。

もちろん複数偶像があっても気にしません。

 

家族も会社も大事だし趣味も大事。

 

そういう生活形態はこうした偶像崇拝を非常に広く行うことから生じているのではないかと愚考します。

 

何度も申し上げますが、文献上の根拠はありません。

根拠は私の経験ただ一つのみです。

 

そのため、判断は皆様にお任せしたいと思います。

どのような判断をしてくださってもかまいません。

 

どちらにせよ、あなたが信じるものを私は信じるだけです。

 

まとめ

 

今回はちょっとタブーに近い宗教についてのお話をしました。

新興宗教のみが宗教と考えられている現在では

宗教のことを話すこと自体が過激です。

 

その中で信仰といえるのかすらも怪しいぐらいの乱雑な多神教を私たちは信じているのでは?という仮説を立てました。

 

私は何を言われてもこの確信を変えることはないと思いますが、

皆様はどうお考えでしょうか?

 

皆様の意見をお聞かせいただいて、さらに広く偶像の種類を知りたいと思います。

 

私はあなたの信じるものを信じるので、あなたはあなたの信じるものを信じてください。