うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

個性という呪い そして呪いを祝いに

 

はじめに

 

自分の肉体という形あるものに縛られる、ほうじょうです。

 

今回は

 

個性とは何かという問題に

個性とは呪いであるという点から論じたいと思います。

 

昨今の「個性は常にポジティブな意味で使われなければならない」

という風潮に異を唱えたいと思います。

 

個性は常にいいものか?

 

昨日、twitterで私はある御方のツイートを見て、個性について考えることになりました。

 

その方のツイートは

 

友人には腕がない。

そのことに対して友人が個性などと褒めそやすな。誰か腕を交換してくれるやつはいるか?

と怒っていたというものでした。

 

その後に、補足としてその友人は片腕でも格闘ゲームでその方を圧倒されていたという旨のツイートをされていました。

 

これは実に興味深いものでした。

 

私も無意識のうちに

「個性はいいものである」

と考えていました。

 

しかし、それは間違っていました。

 

この例ののように常に個性はいいものとは限らないのです。

 

個性は捨てられないから個性

 

しかし、個性は捨てられません。

捨てられないから個性なのです。

 

いつでも着脱可能な性質を本当に個性と呼べるのでしょうか?

 

そして、仮に個性を消滅させる場合は、

非常に多くの時間と金銭、そして身体の欠損を伴います。

 

例えば、性転換手術などがそうです。

 

死の危険すらもある手術を大金を払って行うのです。

 

そして、仮に性転換手術をしたとしても、

「かつて男だった」

そういう個性があったことまで消し去ることは到底不可能です。

 

非常に残酷です。

個性とは本来残酷なものなのです。

 

着脱不可能なのですから。

そして、取り外すならば、恐ろしいほどの対価を支払う必要があります。

しかも、「その対価を支払った」という事実が個性としてつきまとってきます。

 

私達はどれだけ個性から逃れたいと考えても逃れることはできないのです。

 

私の個性

 

私も非常に疲れやすいという性質を持っています。

これは常に周囲を見渡し、周りの空気を伺っていることから生じる疲れです。

 

さらに一つの物事に過剰に集中する傾向があります。

そして、その反動に次の日に何もできない、ご飯を食べることすらも難しいほどにまで追い込まれます。

 

私にとってはこれらの性質は良いものでもあり、悪いものでもあります。

 

非常に疲れやすいことは裏返せば、常に努力をしているということです。

自分の意識にかかわらず、私は個性によって努力を強要されています。

 

非常に集中しやすいということは

失敗を取り返す速度が早いということです。

私は失敗を挽回することを個性によって強要されています。

 

このように私のいい個性も悪い個性の裏返しなのです。

 

だから、私は個性は常にいい意味ではないと言います。

見え方が違えば、個性など捨て去ってしまいたいと望んでしまうことになります。

 

個性とは呪いなのです。

 

個性は呪いである

 

個性は私達に生まれつき与えられてしまった呪い、刻印です。

 

それは社会にとって良い場合もあります。

自分にとっても良い場合もあります。

 

その場合は幸福に生きることができるでしょう。

 

しかし、社会にとって良くない個性だったら?

 

話を抽象的に捉え、指示の理解をできない。

そんな人を会社はよく見てはくれません。

 

毎日非常に疲れやすい、壊れ物のような精神の人間を企業は雇うでしょうか?

雇いません。

 

私の個性は社会において完全に呪いなのです。

 

しかし、私は私自身の性質を良いものと見ています。

確かにデメリットは多いですが、同時にメリットも多いです。

 

こうやって毎日ブログを更新することができるのも、

過剰に集中することができるからです。

 

社会において悪いと判断された個性も

常に本人にとって悪く作用するわけではありません。

 

そこが非常に難しい問題なのです。

 

個性の捉え方の問題

 

以上から個性の捉え方のパターンを4つ紹介します。

 

  1. 自分の個性は社会にとっても自分にとっても良い
  2. 自分の個性は社会にとっては良いが、自分にとっては悪い
  3. 自分の個性は社会にとっては悪いが、自分にとっては良い
  4. 自分の個性は社会にとっても自分にとっても悪い

 

以上のような4パターンが見出されました。

そこで一番上の例を再度挙げましょう。

 

自分の個性は社会にとっても自分にとっても悪い

 

そのご友人はほぼ4のパターンで個性を捉えているでしょう。

本人に聞かなければ、正確なところはわかりませんが、

伝聞では4の捉え方をせざるを得ない状況に追い込まれているように思います。

 

そして、私は腕を交換するかと問われれば断ります。

私は彼の個性が彼のものであることを認めることはできますが、

彼の個性が自分のものになることに我慢ができないのです。

 

非常に難しい問題です。

上の発言は完全に倫理に反しています。

それでもなお私は反対せざるを得ないのです。

 

自分の個性は社会にとっては悪いが、自分にとっては良い

 

私の場合は3です。

 

社会にとっては私は爪弾きにされるような、迷惑な人間です。

しかし、私は自己肯定感が非常に強く、一生涯自分を否定したことはありません。

 

自分の不手際を責めたことはあっても、私の人格や個性を否定したことは一度たりともありません。

(もしかすると忘れているだけかもしれません。とりあえず、こう信じているということです。)

 

学校がどれだけ私を責めようと私は自分を褒めました。

そうやって自分を保ちました。

 

自分の個性は社会にとっては良いが、自分にとっては悪い

 

2の場合はかなり窮屈な人生になるでしょう。

 

彼らは障がいがあるわけではありません。

しかし、自分の個性をよく捉えていません。

 

どれだけ社会的な承認を得ても、自分にとっての満足を得ることはできないのです。

 

しかも、質が悪いことにその苦悩は純粋に本人以外は知りえません。

なにせ社会的な成功を収めてしまっているわけですから。

 

2に当てはまる方は、個性を悪く言いたいのに言えない状況が続きます。

 

自分の個性は社会にとっても自分にとっても良い

 

1の場合は非常に幸福です。

 

あなたの個性と社会が合致した幸運を喜びましょう。

それはあなたの呪いが生まれつき祝いだったことを意味します。

 

以上のように分類し、私は一つ発見がありました。

 

社会的に成功していても、自分の個性を認めていない場合です。

パターン分類をするまでは完全に失念していました。

 

そして、それだけ見過ごされやすいということです。

 

非常に難しい問題が新しく浮かび上がってしまいました。

ですが、その話は後日書くことにして、本題に戻ります。

 

私達は生まれつき個性という呪いを受けています。

しかし、そうした「呪い」は捉え方によっては「祝い」に変えることができます。

 

呪いを祝いに

 

まず、呪いと祝いは表裏一体の概念です。

一面は呪われ、もう一面は祝われる。

そんなことはざらにあります。

 

これらの問題は西洋の呪術で

白魔術と黒魔術に別れていることからわかります。

 

本題ではないので、今回はお話せずに他の記事で詳しく触れます。

 

さて、それた話をもとに戻します。

 

今回、私は個性とは呪いであると主張しました。

しかし、生まれつき呪いを祝いとして受け取ることができる幸運な人がいるというお話をしました。

 

私はもしかすると人力で呪いを祝いに変えることができるのではないかと思いました。

 

私は自分に授けられた「疲れやすい」という個性を

「気遣いができる」という見方に変えました。

 

すると疲れやすいという呪いは単に「気遣いのためのコスト」に変わりました。

すなわち、この呪いは「気遣いできる人間になる」という祝いのコストなのです。

 

このようにして、どのような呪いでも祝いのコストになると考えてみましょう。

 

ありとあらゆる呪いは祝いに変えることができます。

難易度は変わりますが、祝いに変える必要があるのです。

 

例えば、目が見えないというコストを支払って、耳で世界すべてを把握する能力を手に入れる可能性があります。

 

人間の身体は欠損を補うようにできています。

生きるためです。

補いきれるかは別問題ですが、どのような呪いでも人は補おうと必ず努めます。

生きているからです。

 

少し見方を変えて、現在の呪いとしての個性を祝いとしての個性に変換しましょう。

 

呪いを解くためにはそのように個性を祝いに変換するための努力が必要です。

 

私達には呪いを祝いに変える「しか」道が残されていないのです。

 

まとめ

 

今回はtwitterで反響があった。

「個性とは呪いである」

という話を深掘りしました。

 

結果、私は4つの個性の捉え方のパターンを見つけました。

 

  1. 自分の個性は社会にとっても自分にとっても良い
  2. 自分の個性は社会にとっては良いが、自分にとっては悪い
  3. 自分の個性は社会にとっては悪いが、自分にとっては良い
  4. 自分の個性は社会にとっても自分にとっても悪い

 

このようなパターンがありました。

 

そして、なぜ社会に呪われている個性を自分では気にしていないのかを考えました。

 

私は無意識のうちに呪いを祝いに変えていたのです。

私は呪いをコストとして捉えて、祝いとなるべき個性を培ってきました。

 

おかげさまでブログの毎日更新も続き、40記事を越しました。

 

このように、呪いを祝いに変える技術は個性に苦しめられている人の助けに必ずなると思いました。

 

そこで今回の記事に至るわけです。

 

今回の記事で少しでも呪いを祝いに変える方が増えてくださると幸いです。

結局、それ以外の道は残されていないのですから。

 

ここまでの長文、読了ありがとうございました。