うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

この世すべてが夢だとしても 現実とは現実感のことである

 

はじめに

 

形あるもの自体が形なきものを表現する、ほうじょうです。

 

今回は

 

世界は夢なんだ、幻なんだ。現実なんて本当はないんだという方や

今ある現実が色あせて見える。まるで夢のようだ

という方向けに書きました。

 

現実とは何か、夢とは何かを知ることができます。

 

夢とは何か

 

夢とは一般的には眠っているときに感じ取っているものごとのことを言います。

しかし、哲学的に突き詰めていくと、この一般的な定義からは外れていきます。

具体的に言うと、今私たちが感じている現実も夢なのではないかと疑うことができます。

 

ここでいう夢とは現実よりももっと現実感のないものごとのことを言います。

 

実は、この「現実も夢なのではないか」と疑うことは

哲学上でいう認識論という分野においての重要なテーマなのです。

 

なぜなら、人間の見る世界だけが本当の現実とは限らないからです。

ただ、人間が感じられない(認識できない)だけでより確かな世界があるかもしれません。

現実よりも確かな世界を想定することで

「現実は(より確かな世界と比べて)夢である」

という命題が成り立つのです。

 

今ある現実よりももっと確かな世界があれば、私たちはそれを現実と認識するでしょう。

 

つまり、私たちは起きながらにして、夢を見る可能性があります。

私たちは現実にありながらも夢にいるという可能性があります。

 

それはより確かな存在の想定という前提から導き出される可能性によって規定することができるものごとの集まり(世界)です。

 

夢と現実の差

 

実は夢と現実には明確な境はありません。

 

例えば、睡眠中でも私たちは感覚が働いています。

それゆえに、睡眠中の夢が完全に現実ではないかというとそうではないのです。

ただ単により不確かな現実のことを私たちは夢と呼んでいるにすぎないのです。

 

しかし、現実と夢ではものの見え方が違います。

例えば、人は夢で色を認識しません。

 

そして、睡眠中の夢(現実)と起きているときの夢(現実)では色という点で差があります。

 

つまり、より要素が多いほう、たくさん感覚を感じられる方を私たちは現実と認識するのです。

 

そして、私たちはもっと色鮮やかな世界を想定することができます。

例えば、私たちは光の色を3種類しか認識できません。

しかし、もっとたくさんの光を認識することができれば、もっと多くのものが認識できます。

 

ということは、仮に4種類の光を私たちが認識できるならば、3種類の光しか認識できない現実なんて夢に過ぎないということができます。

 

さらに言えば、4種類の光を感じられるからと言って、5種類の光を感じられたら、もっと現実だろう?と考えます。

 

そして、6種類は? 7種類は?

 

と無限にさかのぼっていくことができます。

 

仮に何千万の光を私たちが感じられるとしても、それが夢である可能性は常に残り続けます。

 

夢の定義からしてありとあらゆるレベルの現実が夢として片づけることができます。

 

それよりも確かな世界がないと確認する方法はないからです。

 

そのため、現実と考えられている世界であっても、もっと現実感のある世界に比べれば、夢になるわけです。

 

現実を夢と疑うのを意図的にやめる

 

ここでじゃあ私たちはどうすれば現実を知ることができるのか、という疑問が浮かぶと思います。

 

そこで重要になるのは、一度今ある世界を肯定することです。

この世界が夢かもしれないという可能性は常に残りますが、それはいったん無視します。

 

こうして意図的に可能性を無視することを判断停止といいます。

(これは現象学という哲学の文やで最も重要視されている態度です。後々機会がありましたら、触れたいと思います。)

 

さて、一度判断停止して、今ある世界を現実とします。

それでは、現実が現実たる要因を考えていきましょう。

 

現実感

 

現実感は、五感から構成されます。

今、ここにいるという感覚のことです。

例えば、

椅子が足に触れあっているとか、

キーボードを指で感じるとか

目の前にパソコンがあるとか

それ以外にも感じることはいろいろあります。

 

こうして感じることで、私たちはそれがあるという感覚。

すなわち、現実感を手に入れることができます。

 

この現実感を指標にすることによって私たちは今見えている世界を夢ではなく、現実と考えられるのです。

 

夢というのは現在の現実よりも少ない現実感の世界のことです。

光の例を思い出していただきたいです。

 

3種類よりも4種類、4種類よりも5種類といったように、感覚が増えれば増えるほど現実感は増えていきます。

 

そして、現実感が増えれば、より確かな現実であると私たちは考えられるようになります。

しかし、現実感がどれだけ増えても、夢である可能性はぬぐい切れません。

 

そういう疑いに歯止めをかけることができない場合、私たちは判断停止することができます。

夢である可能性を一度判断停止してさえしまえば、現実を現実感によってうまく説明することができます。

 

最後に、改めて強調します。

夢と現実を明確に区別するものはありません。

夢と現実の差は結局現実感の程度の問題なんです。

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

 

夢と現実には明確な境目はありません。

しかし、より現実感のない世界のことを私たちは夢と呼んでいます。

 

そして、今ある現実よりももっと現実感のある世界を私たちは想定することができます。

それゆえに、「今ある現実は(もっと現実感のある世界と比べて)夢である」

ということになります。

 

しかし、それだと無限により現実らしい世界を想定することができることになり、現実というものはそもそも論理的に存在しないものになります。

 

私たちが現実を感じているのにも関わらず、です。

 

この場合、私たちが現実を感じている、現実が存在しているのに、現実が論理的に存在しないと帰結してしまいます。

 

ということは論理的に存在しないというほうが間違っています。

現に存在しているわけなので、論理的に存在するというほうが当然正しいです。

 

論理的に存在しないというのは無以外のなにものでもありません。

 

そのため、私たちは今ある現実を現実として受け止めて、論理的矛盾がなぜ生じているかを確認する必要があります。

このような意図的な思考停止を哲学では判断停止といいます。

 

そして、今見えているものを現実として認めましょう。

そうすれば、論理的に存在しないのに、現実は存在するという矛盾が解消されます。

 

すると何が夢であるかがわかるようになります。

すべて今目の前に見えている世界を基準にすればいいからです。

 

そして、私たちには現実感以外の世界の確実性を図る尺度はありません。

その尺度に満足する必要があるのです。

 

読了ありがとうございました。