文系大学のあとさき 新制大学の現実と教育機関の限界
文系大学を卒業したほうじょうです。
せっかく大学を卒業したのに、就職活動で行き詰まる現状に対して理由を考えていきたいと思います。
結論から申し上げますと、
私は教養を身につけられておらず、教養とは何かも知らないことが理由ですね。
それに対して愚痴も交えて、大学やそれ以前の教育制度に対する指摘を行います。
具体的には教養とは何かを明文化し、それを明言し続けることが重要だと感じます。
utakatanoatosaki.hatenablog.com
以上の記事で教養の大体の方向性と科目は明示しました。
今回参考にしたのは以下の3つのpdfファイルです。
日本の大学
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181123091345.pdf?id=ART0009132855
13ページ程度のpdfファイルです。
少し難しい話も含まれていますが、一見の価値はあります。
データとして大学生の数や教員の数を示しています。
今回の記事はこちらの記事を参考に作成しております。
リベラル・アーツ - 東北福祉大学
https://www.tfu.ac.jp/students/arpn890000001rdp-att/navi09-01.pdf
前回の記事でも活用しました。
教養とは何かについて考える方針を提供してくれます。
『文系の知とは何か? - 「文系学部廃止」の衝撃』
http://www.jst.go.jp/ristex/public/pdf/50_s.yoshimi2016.08.pdf
文系学部がなぜ廃止の憂き目にあっているのかを解説しているpdfファイルです。
旧制大学と新制大学を取り巻く環境
まずは「大学」がエリート養成機関として教養を身に着けている人が専門の教育を受ける機関として成立していた(と思われている)旧制大学の話から始めます。
そこに入れる人はすべて等しく教養を身に着けているからですね。
これらの旧制大学はごくごく少数のエリートしか入学する資格を得られませんでした。
金銭や家庭環境などが十分に恵まれた人しか入ることができず旧制大学に入学することができたのは全体人口の10%を下回っていました。
社会階級におけるエリートのみが旧制大学に入ることができました。
あとは、ごくごく一部の幼少期から教養とは何かを心得た教育を受けた方だけですね。
現在の大学は社会の負担になっている
ですが、現代の大学進学率は短大も含めて50%を超えています。
それゆえに教養を身に着けきれずに大学に入る人も必然的に多くなりました。
私立文系大学などに入らざるを得なかった人などはそれですね。
もちろん私も含まれます。
大学進学率の上昇に伴って、大学のニーズと学生のニーズに乖離が生まれています。
少なくともすべての学生が教養を身に着けていることを前提に話をすることはできません。
そもそも誰も教養というものがどの科目を表しているのかを明確に説明することができていません。
中等教育を任されている教師も知りません。
とりあえず受験に合格しさえすればいいという現状があります。
新制大学は教養を教育する必要がある
教養を身に着けていない、すなわち、基礎学力が足りていない学生に対しては専門的な学問が難しいものと感じます。
少なくとも日本語の語彙・文法・読解、そして、学校では教えてくれない、文章作成法などを身に着けていなければ、吐き気がするほどに無意味なものに見えるでしょうね。
だからこそ、大学は2年もの時間を費やして教養を身に着けるための科目を充てる必要があります。
大学3年生から始まる就活
さらに就職活動もあります。
就職活動は大学3年生から始まります。
つまり、専門教育が始まる頃ですね。
これでは、大学生が専門知識を得ることなどかなわないのではないでしょうか?
現在の大学が就労移行支援機関でしかないと揶揄されるのはこのような制度のゆがみから生じているように感じます。
なぜ私は私立文系大学に行くことになったのか
ここからは私事を交えた警告です。
偉そうに学校制度に物申していましたが、少なくとも私は旧制大学に入るだけの教養は身についていない自信が現在でもあります。
新制大学だからこそ私は大学に入れました。
私は現在の社会が求めているであろう教養を身に着けていません。
自分で調べるということを知っていればよかったのですが、
何せ田舎の自称進学校()なのでむやみにカリキュラムが前倒しになっています。
拘束時間が朝の7:30~19:30ありましたので、体力が持ちませんでした。
しかも、3年生になってからやることはひたすらセンター試験対策。
私は高校選択を誤りました。
私のリサーチ力の低さが招いた地獄でした。
皆さんは自分が行く高校がどのような制度になっているかを調べましょう。
そこが本当に教育機関なのかを調べなければ、私と同じ轡を踏むことになります
勉学は口を開けて待てば、放り込まれてくるようなものではありません。
仮に放り込まれるとしても、それは栄養価もなく、まずいものです。
自分で学ぶべきことを定めましょう。
そして、罠にはまらないように気を付けましょう。
大人になってから気付いては遅いのです。
就職活動で行き詰ります。
国家の求める教養を身に着けるしかない
教育機関が教養とは何か理解していないのならば、自分で調べ、理解する必要があります。
必ず求められている教養が何かわかります。
現在は学びたいことはだいたいpdfファイルで上がっています。
そこにはこれから読むべき参考文献もあります。
小学生だろうが、読もうと思えば読める場所に置いてあるのです。
ただ、情報が置いてあるという事実を誰も教えてくれないだけです。
現行の大学は教養を補う機関でしかない
現在の大学は単に大卒資格を得るための就労移行支援機関でしかありませんし、
大学に限った話ではありません。
しかも、就労移行支援機関にも学校は徹しきれていません。
社会で何を求められるのか、何を知っておくべきなのか。
それを学校では教えてくれません。
それでは学校の価値がどれぐらいあるのかと疑問を呈されるのも当然でしょう。
むしろ単純化された方針がすべての人に対して明示されている状況が作られるべきだと考えます。
私はすべての人が教養を身に着ける可能性がありながらも、
教育制度や金銭の問題で身に着けられない現状があると感じます。
それに対してせめて学校側が積極的に大学で何を学び、
それが社会でどう役に立つのかを宣伝する必要があるでしょう。
まとめ
今回は文系大学に通い、そこに行きついてしまった私の経験から自分で調べるということの重要性を強調しました。
自分で調べなければ、教養とは何かわかりません。
ちなみに過去記事で本来は身に着けるべき教養が20科目にも渡ることを書きました。
ついでに言いますと教師も理解していません。
彼らに頼ると痛い目に会います。
就職活動でもそうです。
口を開けて待っているだけで入ってくる情報などは無用なものです。
本当に重要な情報ほど隠れています。
教養とは、基礎学力とは何かをできれば小学生のうちに明確にしなければなりません。
それが求められています。
書いていて感じていたのですが、教育というのがどれだけ家庭によるのかがわかります。
小学生が基礎的な20科目以上の本当に身に着ける必要のある教養を知ることができるでしょうか?
そこには必ず周囲の大人による導きが必要なはずです。
子供の自己責任で教養とは何かを探し、学ばなければならない現状に私は腹が立ちます。
昔からそうかもしれませんがね。
とにかく、学問を修めるためには家庭環境が重要という現状を変えたいですね。
不公平に過ぎます。
実質的な階級制度は現在もなお残り続けているのかもしれませんね。