うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

客観性の正体 自分ではない何かの持つ評価基準

自分の意見と他人の意見の区別が付きづらい、ほうじょうです。

 

みなさんは客観的にものを言うことができますか?

私などは自分の意見と他人の意見を区別するのが非常に難しくあります。

 

しかも、それを認識することすらもできていませんでした。

しかし、それを先日、1週間以内に初めて自覚いたしましたので、

他人に求められている客観的な視点とは何かを改めて考えてみました。

この記事を通して、自分の中で客観性とは何かを固めていきたいと思います。

 

 

 

 

他人の意見という客観性

 

今回は客観性と言っても、普段日常で使われる意味の客観性についてお話します。

客観性はラジカルに突き詰めてしまいますと、いつのまにやらすべて失われてしまいますからね……。

 

そこでここでは客観性を自分ではないだれかの意見、他人の意見や自分が他人から見てどう見えるかという意味での客観性をお話していきたいと思います。

 

他人の意見には必ず言った人の名前を付けておく

 

自分の意見と他人の意見がまぜこぜになってしまうのは私にとっては非常によくあることです。

ですが、他人の発言ならばその引用元がなんとなくわかります。

本当になんとなくでどこかで聞いたことあるなというぐらいですが、

どこかで確かに聞いたことがあるのです。

 

それが重要です。

 

どこで誰が言ったことなのか。

確認することができるものなのか。

 

確認できるならば、〇〇さんがいった「△△」という意見ということができます。

これこそまさに客観的にものを言っていることにほかなりません。

 

ここで重要なのは「△△」のなかに自分の所感を入れてはならないということです。

「△△」の部分に例え思うところがあったとしても、

「〇〇さんが言った「△△」に対して、私はこう思います」といいましょう。

「△△」という意見に形容詞などを付け加えないようにしましょう。

 

客観性の正体

 

他人の意見と自分の意見を区別する方法はなんとなくわかりました。

ですが、それだけでは不十分です。

 

私達は社会の中に生きる生き物です。

好むと好まざるとにかかわらず、私たちは他者の視線にさらされています。

そして、評価されています。

 

では、その評価は一体どのようなものなのでしょうか?

調べてみたり、当人に聞いてみたりしなければ決してわからないでしょう。

 

そのような評価の基準を通して見られた私たちの姿こそ客観性です。

少なくとも、日常の場で「客観的にものを考える」というのは他人の尺度、それも特定の立場にある人の尺度を測ることおよびそれに合わせて行動することを意味します。

 

他人の立場を意識するというのは他人の評価基準を知ることです。

調査がかかせません。

自分の殻の中に閉じこもっていては客観性を知ることはできません。

 

だからこそ、客観的にものを考えろと言われ、そのために勉強をするのです。

どうあがいても外部から情報を仕入れなければならないのですから。

 

他人の立場を意識することで評価基準を探る

 

他人の目を意識すると言われてもどうすればいいかわからない……。

そんなときは相手の立場を考えるといいでしょう。

相手の立場に立てば、どのような評価基準を持っているか、調べることができるようになります。

 

例えば、面接官立場では私に仕事ができるかどうかを確認する必要があります。

そんな状況で彼(彼女)は私の何を確認するでしょうか?

もしくは何を確認できるでしょうか?

 

おそらく身だしなみが整っているか、しゃべりは整っているか、自分が聞かなければならない質問内容について答えているかなどなどでしょう。

他にもあるかもしれませんが、それらは調べればわかったり、当人に聞かなければわからないことでしょう。

 

いずれも調べてもらったり、教えてもらったものです。

決して私自身が彼らの心理を読み解いて得たものではありません。

調べて得られたものこそ客観性の正体です。

 

 

そして、相手の求める客観性にそうようにまずは立ち居振る舞いを意識しましょう。

立ち居振る舞いを意識することで相手の評価を変化させることができます。

というよりもそれ以外の手段がありません。

 

唯一立ち居振る舞いのみが相手の持つ客観性に沿うだけの可能性を持ちます。

心して相手の求める評価基準に従いましょう。

 

なぜ客観的でない意見が存在できるのか

 

今回は他人の言う客観性が何かを考えながら、書いていきました。

少なくとも、ここで離すことができるのは文字という客観的な媒体があるからこそですし、私はそれを学んでまいりました。

あえて言うならば、私たちは文字を用いる限り常に客観的であると言えます。

 

ですが、その客観性はいくつもありますし、その境界も曖昧です。

つまり、客観性同士が混じり合うことになります。

そうして曖昧になり、境界のわからなくなった意見を私達は主観的と呼ぶのです。

 

とりあえず客観性という言葉の使われ方がなんとなくわかったところでまとめに入りたいと思います。

 

まとめ

 

客観的にものをしゃべるというのはものすごく難しいことです。

とにかくだれが言ったことなのか、その出典はどこにあるのか。

その人はだれに影響を受けたのか、それを考えていくと限りがありません。

 

ですが、一時的にそういったことは忘れましょう。

 

重要なのは目の前にいる人がごちゃごちゃとした何かを自分の意見として言っているということです。

そして、その言われたという事実を客観性として認識するべきです。

実際に、世間一般ではそのような意味で客観性という言葉が使われています。

 

私も当然それに習うべきでしょう。

できなければ、相手に伝わりませんし、そもそも評価すらしてもらえません。

 

〇〇さんが言った「△△」

〇〇さんは「□□」といった立場にある

 

そういったことを知識に落とし込みながら、相手の求める客観的な意見を柔軟に変化させながら言えるようになりたいですね。

客観性というのは不変のものではなく、あくまでも目の前の伝えるべき相手によって変わるものなのですから。

 

ここまで乱文を読了していただいた方には格別の感謝を。

ご読了ありがとうございました。

客観性について悩まれている方の参考に少しでもなれば幸いです。