うたかたのあとさき

泡沫のごとく儚き想いを形に

仏道修行としての座禅

 

 

思想と宗教切り離すのにどうすればいいのかわからない、ほうじょうです。

 

はー……。

宗教学楽しい……。

 

さて、前回、単なる休憩法としての瞑想をご紹介しました。

その中で座禅に触れたのですが、これはもともとは禅宗の修行方法。

心の中を空っぽにするための最適の方法です。

 

もともと仏教ではこの世に対する執着をなくそう!

という根本的な思想があります。

それを一番効率的に行えるのが座禅でした。

 

そういうわけで禅宗が生まれました。

 

 

 

心を無にする

 

まず、昔話、伝説をお話しします。

お釈迦様の伝説です。

 

彼は菩提樹の下で何日か絶食をしながら、瞑想をしました。

私の勝手な解釈ですが、たぶん特別に何かを考えていたわけではないと思います。

とにかく、ありとあらゆるものへの執着を捨てるために何をすればいいか。

考えなければいいのか。

 

それを実践しただけだと思います。

 

それで空腹と疲労が絶頂に達したとき、なんかお釈迦様は悟ります。

この世からの執着をなくせば、苦しみはなくなるのでは?

と。

 

そういうわけで仏教の開祖と呼ばれてしまうまでになった、

ゴータマ・シッダールタの伝説は始まります。

 

空を体感する

 

座禅はそんなお釈迦様の状態を体験する修行です。

特に何かを考えるわけではなく、それでいて眠っているわけでもない。

そんな状態を1日中ずっと行うのです。

 

なんか突然悟る

 

私は毎日瞑想をしています。

1分ぐらいして目を開くと突然次にやるべきことを思い出します。

瞑想から覚めるとなんか突然悟るようです。

これを仏教の用語で少覚といいます。

逆にすさまじい衝撃を伴った発見を大覚といいます。

 

悟りはちょっとしたものから大きなものまであるわけです。

ということは一般の人もどんどん何かを悟っている可能性があるわけです。

 

そこで仏教で一番有名な言葉、一切衆生悉有仏性という言葉があります。

どんな生命にも仏に至る可能性がある、仏教に至る可能性があるという言葉です。

 

私はこの言葉が大好きでディープエコロジストとして共感します。

そりゃあ当然ナメクジも悟る可能性あるでしょうと思う私としては

自分を後押ししてくれる言葉なわけです。

 

というわけで一切衆生悉有仏性というのは、

なんか突然悟る可能性がありとあらゆる生命において悟りが訪れる可能性があることを認める言葉になります。

 

相対主義者の心をわしづかみにしてきますね……!

なんかワクワクしてきました……!

 

頭を休めているときにこそ一番考えている

 

一般論ですが、勉強というのは睡眠中にこそ定着します。

睡眠中、つまり頭を休めているときにこそ実は頭の整理が進みます。

ということは座禅は勉強の後にすることで頭を整理する効果があると考えられます。

 

逆説的ですが、何かに思い悩んでいるときよりも散歩をしているときのほうがいいアイデアが浮かびやすいのと同じように、

座禅などの瞑想をしているときにこそ頭が一番整理されるわけです。

 

勉強の効率化という面でも座禅は効率的です。

 

まとめ

 

今回は仏道修行として座禅、すなわち瞑想についてお話してみました。

私自身仏教に明るいわけではありませんが、

相対主義者としては一切衆生悉有仏性という言葉に強い共感を持ちます。

どこの宗派の言葉かはわからないのですが、この言葉があるからこそ

仏教のことをもっと知りたいと思うわけです。

 

まあ、あまり深入りして、出家までしてしまわないようには気を付けたいと思います。

どこかに帰依するというのは思想信条の関係でできませんからね。

相対主義者はすべての宗教に同時に帰依するか、ありとあらゆる宗教に帰依しないかのどちらかしか選択肢はありませんので……。

 

というわけで今回のお話は終わります。

ここまで読んでいただいた方には格別の感謝を込めて。

ご読了ありがとうございました。

やっぱり宗教難しいですね……。